私が表現の自由についての投稿をした直後に、
日本での映画をめぐる大問題を聞いて悩ましく思っていたら、
ついにル・モンドにも記事が載りました。。。
私はネットで見たのですが、トップ記事のすぐ下だったからかなり目立つ位置。
関連する別件もけっこう丁寧に分析してあるので、ちょっと訳してみます。(フランス的な表現が面白いから直訳で・・・)けっこう長いけれどル・モンドの視点はなかなか興味深いです。
「安全のため」として東京と大阪にある5つの映画館が在日中国人の李纓監督の映画『Yasukuni』の上映を中止した。日中共同制作のこのドキュメンタリーは香港国際映画祭で入賞したばかりだ。
日本中の他の映画館もいくつか既にこの映画を上映しないと公表している。映画館が懸念しているのは、多くがやくざとつながりがあると言われている右翼団体の抗議行動の的になることだ。4月2日水曜日付けの新聞はそろってこの表現の自由の侵害を問題視していた。国旗を掲げ強力なスピーカーを備え付けた黒いトラックから、この団体は呪いの言葉をわめきちらして映画館をデシベル爆弾で攻撃する。表現の自由のもと、警察は介入できずにいるのだ。表現の自由を制限する最近のいくつかの問題に続いて、右派から「反日的」との評価を下された『Yasukuni』の上映自粛は、また1つ民主主義の根本的な自由の侵害することになる。
1869年に建設された靖国神社は、祖国のために亡くなった人を偲ぶために、奉納されている。
1970年代の終わりからは1948年に東京国際裁判で戦犯として処刑された7名も祀られている。このため、日本の高官の参拝は日本の過去の軍国主義を水に流す行為であるとして中国や韓国との間に頻繁に物議を醸している。
李纓監督は作品の中で主に過去10年を集中的に取り上げている。というのも、戦争の解釈について議論の焦点があたることになったのは、2001年から2006年にかけて小泉首相が繰り返し参拝したことがきっかけとなったからだ。映画は8月15日の敗戦記念日に旧兵士たちが軍服を着て頭には日の丸を巻き神社に祈りにやってくる様子を描いている。他にも映画には1937年の南京における民衆の虐殺の写真なども使われているが、この事件に関して右派は、中国側が公表する規模(死者20万以上)を否定し「ささいなトラブル」にすぎないとしている。歴史修正主義者の立場からすれば、こうした写真の信憑性は疑わしく、映画は事実を操作しているという。しかし監督は映画の中で戦争について様々な意見を持った人々にインタビューを行っている。「2007年の12月から翌3月までの3ヶ月間にわたって私たちは何度も日本で記者会見を行ってきました。映画館の経営者や配給会社の方々も私たちもこの映画を公開することが1つの挑戦であるという認識は持っていたはずです。右翼が抗議行動を起こすことは珍しくありませんから、今回もそうであろうことは明らかでしたが、皆が私を励ましてくれていました。私たちはお互いに支えあっていたのです。」と李纓監督は語る。
現在政権を握っている自民党の議員の一部は映画の内容に疑問を抱き、この映画が一部助成金を受けている(750万円=4万7千ユーロ)ことを理由に映画の上映会を申請し、文化庁はこの要請に応じた。稲田朋美議員は、この映画は「イデオロギー的メッセージ」を含んでおり「中立性は疑わしい」として、助成金の対象にはふさわしくないと考えている。
文部科学大臣の渡海紀三朗氏は「圧力やいやがらせがこのような状況を招いたこと」に対して遺憾の念を表明している。メディア側は中道右派の読売新聞(1300万部)ですら、助成金の問題は映画の上映とは別に扱うべき問題であるとして表現の自由の尊重をうったえる社説を掲載している。
「議員上映会以後、状況は一変しました。政治家たちがあらゆる圧力をかけているのです。多くの議論が映画の中身とは無関係なのに非常に残念です。私にとってこの映画が上映できないなんて考えられないことです。このことは日本にどれだけ保守主義が根付いているかを露呈していますし、日本社会が中国に対して、アジアに対して、そして世界のそれ以外の国々に対してどのような立場を取っているかについても問わずにはいられません。 私の目的は日本人とコミュニケーションをとって、可能な限りの手段を使ってこの映画を観てもらい、このことについてよく考え議論を交わしてもらうことなのです。」
あまりメディアではとりあげられていないが、最近、表現の自由に対する様々な圧力による問題が他にも日本で起きている。高等教育に携わる教師が20人程、2003年から義務化された国歌斉唱を自分たちの生徒に適用することを拒否したという理由で処分(10%の減給、6ヶ月の勤務禁止、非常勤の場合は契約の不更新)を受けたのだ。以来、400人もの教師がこの指令に従わなかったために処分あるいは“再教育”の対象となっている。
ゆったりとしたテンポで荘厳な日本国歌は、天皇への頌歌である:「君が代は千代に八千代に、細石の巌となりて、苔の生すまで」("Que ton règne dure mille vies, huit mille vies, jusqu'à ce que le caillou soit devenu rocher et ait été couvert de mousse.")国旗の日の丸(白地に赤い丸)と共にこの国歌は、知識人たちから軍国主義のイデオロギーに結びつくものとして抗議されながらも、1999年に国家のシンボルとして法律で認められた。これらの国家シンボルは最近ではもう議論の的とはなっていない。スポーツ競技と勝利の歓喜によって若者たちの間にはお祭りの気分が喚起され、戦前のコノテーションは切り離されたのである。
それでも国歌についてはその斉唱が強制されているのであるから、信仰の自由についての議論の中心をなしている。
2006年9月東京裁判所は卒業式での国歌斉唱を拒否していた教員の主張の正当性を認めた。判決理由として裁判所は、「教員が君が代を歌う義務はない」とし、「誰であれ斉唱を強制することは思想・信仰の自由に反する」とした。さらに東京都に対し原告の損害賠償として1200万円(8万ユーロ)の支払いを命じた。
2003年10月の条例において東京都教育委員会は教育機関の校長に対し、教員に演奏開始と共に起立し、生徒に国歌を斉唱させることを義務付けるよう通達した。この条例は違反者に対しての罰則を用意しており、400人が東京裁判所に訴えを提出していた。裁判官は、君が代の罰則を伴う義務化は政府に教育への「あらゆる過度の介入」を禁止している教育基本法に反すると主張した。
戦争とその解釈は日本において戦後ずっと大きな争点となっており、議論や裁判を呼び続けている。3月末、司法は今度は歴史上の出来事についての判決を下した。1945年3月のアメリカ上陸の際、軍隊が命じた、沖縄における民衆の集団自決である。
大阪裁判所は『沖縄ノート』(1970年)の作家であり、1994年のノーベル文学賞作家の大江健三郎氏と出版社岩波書店の主張の正当性を認めた。彼は事実を操作したとして旧軍人たちに訴えられていたのだ。裁判所は軍の司令部がこの自決に「深く関わっていた」と結論付けた。
大江健三郎氏は座間味島と渡嘉敷島の2つの島で起きた430人の自殺について触れていた。日本の領土の中で太平洋戦争の最も残忍な闘いの場(12万人の死者、うち大半は民間人であり、人口の4分の1にあたる)となった沖縄での集団自決における軍の役割は、教科書では過小評価されている。映画『Yasukuni』の上映が再開されるためにも、司法の介入が必要なのだろうか。
Philippe Pons
荒訳で申し訳ないです。本文が読みたい人は言ってくださいね。
ちなみに、一応5月から上映再会が決定したようで一安心。