2009/04/25

memory≠history?

大学院生活にも少しずつ慣れてきました。
でもなんというか、時間の流れがものすごく密。
流れが密って、変な表現だけど、
日々を送るということが、たとえば時間という流れに揺られてどこかへ向かっていくということだとしたら、
今は量も幅もある豊かな流れの中に身をおいているという感じなのです。

私たちはこうして流れの中で絶えず動き続けている。
なんだ、また同じところに戻ってきたじゃないかって思うこともあるけど、
それだって―時間を海に譬えるなら、その海の状態だって―やっぱり絶えず変化しているのだから
2度と同じということはありえないのだ。

・・・などと考えながら前に進むのですが。
それはさておき、大学院初の発表を終えました。

発表といっても訳読なので、プレゼンテーションではないのだけど。
読んでいるのは、かの大作『記憶の場』("Lieux de mémoire" Pierre Nora編).

そこで歴史と記憶の区別が重要となってくるのですが、
非常に乱暴な区分をすると、過去に属するものが歴史、現在に属するものが記憶。
で、編者曰く、記憶の場というのは、一言であらわすと「現在のなかにある過去の相対的構造」、
あるいは「再記憶化の過程」、つまりその両者をつなぐものなわけです。

これはなかなか面白い問題で、
たとえばホブズボームも『帝国の時代』の序章で、
一般化された記録としての過去を歴史、個人の経験としての過去を記憶と呼んで区別し、
両者の間の曖昧な領域の存在を指摘したうえで、
その正確な認識が困難であること、しかし重要であること、を主張している。
この本が書かれた1980年代において、『帝国の時代』はまさにこの曖昧な領域に属していたということだけど、果たして今日、『帝国の時代』はもはやこの領域を脱したと言えるのだろうか。。。

記憶は再記憶化された後も、やがてまた新たな記憶となって継承されていくもので、
言ってみればそのために、意図的に「再記憶化」という行為がなされるようなもの。
だから「記憶の政治学」なるもの(という授業を私がシアンスポで受けていました)も存在するのよね。

そういう意味で確かに「帝国の時代」は再記憶化という行為を免れないわけで、
政治的に、この曖昧な領域に押し留められてるとも言える。
私の勉強している分野を歴史と呼ぶ人がいるけれど、
この時代をこうした曖昧な領域から救い出す、という観点からすれば、それは正しいのかも。

とはいえ、この再記憶化を経ることによって、この問題は常に現代性を持ったものとして現れていて、
要するにそれがポスト・コロニアルということなのだろうけれど、
それはグローバル化のような現代の文脈において捉えなおさなければならない問題でもあって、
決して過去に葬り去ることはできないとも言える。

私のことを知っている人に研究テーマを話すとよく、
「もっと現代のことをやってるのかと思った」といった反応が返ってくるのだけど、
私は現代のことをやっていないつもりはないんだよなぁ。
と、いうことは、私が扱ってるのは、まさにそのギャップなのかもしれない。

2009/04/05

independance

4月4日はセネガルの独立記念日。
今年は49周年。来年はダカールに見に行きたいなぁ。。

今年のテーマは
"les forces de défense et de sécurité au service de la diplomatie"
直訳すると、防衛と安全保障部隊の外交奉仕。

独立記念日には慣例の盛大な軍隊の行進が行われる、というのはフランスも同じなのだけど、
やっぱりこういうハレの舞台に軍隊が堂々と登場するのを見ると、ちょっと身構える。

国際政治の駆け引きを動かすのは「力」であり、
どんなにソフト・パワー、スマート・パワーという概念が説かれるようになったといっても、
いまだに軍事力のような古典的な力の占める位置は大きいのだ、ということを瞬時に思い出させられるからだろうか。

その国に対する自分の
étrangeté=外性を突きつけられるからかもしれない。

生活というレベルにズームを合わせていたのが、
カメラが引くと突然「国」という枠が現前化してしまう。

これは外国のことを勉強しようと思ったら必ず向き合わなくてはいけない問題なのでしょう。
「よそものの視線」それは意外に鋭いもので、
ときにとても有益だけど、同時に危険性も孕んでいるし、だから警戒もされる。
うまく付き合っていくしかないのです。