2010/10/13

la table aux enfants


更新再開を宣言してから早くもまた間があいてしまいました。。。

留学記として始めたこのブログの想定読者の半分は家族。
家族ってその日常はもちろんよく知ってるのだけど、もう少し大きなテーマについて、
どういう考え方をしているのか、実はあまり知らなかったりする。

それは親子でもそうだし、
兄弟はもっとそうかもしれない。

同世代だから、似たようなテーマを追ってることもよくあるはずなのに、
というか、同じテーマに接してるから却ってライバル意識なんかが刺激されて、ということなのかもしれないけど、面と向かって価値観を語り合うようなことはほとんどなかったような気がする。

同世代の家族、といえば兄弟だけではなく従兄弟もそう。
小さいころからよく一緒に遊んで仲はよかったけれど、ただゆっくりとお喋りをする、というようなことはやはりほとんどなかった。

というわけで、
いとこ4人でお泊り会をしてきました!

みんなで買い物して、夕飯作って、
夜はお菓子をつまみながら、語り合う・・・という中学の林間学校なんかみたいなワクワク企画(笑)
メニューもちゃんと定番カレーライス♪

それぞれの将来像とか、人間関係とか、
大きいけど他愛もないようなテーマを、たぶんわりと無防備に語る。

いとこという距離感は不思議なもので、
自分の思考のバックグラウンドが浮き上がってきたり、
集団のなかでの立ち居振る舞いが見えてきたり、
そういうのが面白かった。

これからまた少しずつみんなの生活環境なんかも変化していくのだろうけど、
そんななかで、こうやってちょっとした原点に立ち返ることのできる場って大切にしていきたいなと思ったのでした。

2010/07/28

la distance

生きていくなかで自分が遭遇したいろいろな契機と、
そこから私なりに考えたことっていうのを共有したくて、
ブログをつけることにしたのでした。

その動機が今も有効なので、
しばらく更新できてなかったけど、また再開してみようと思います。
今年はなんといっても論文執筆があるので、そんなに頻繁にというわけにはいかないけど。

もちろんもともとは留学記としての部分が大きかったわけだけど、
結局インターネット空間に載せるものは、私がどこから発信しているか、
読者との物理的な距離は実は関係ない、と思うんだよね。

というか、距離感っていうのは不思議なもので、
人が実際的に認識できる範囲は決まっているわけで、
それを超えたところにあるものは、すべて想像なのだから、
「実際の距離」といっても「近い」とか「遠い」というのは、だいたいイメージにすぎない。

歩いては行けない距離になってしまえば、その感覚は本当に曖昧なものなのに、
「近い」「遠い」という心理的イメージが、実態を持ったもののようについてまわる。

パリにいたとき、ベルリンまで行くのに電車に乗って10時間近くかけたけど、
飛行機に乗ればほぼ同じくらいの時間で東京に戻ることだってできる。
半分の時間でダカールにも行ける!!

もっと言えば、直接知覚されることがなければ、
すぐ隣にあるのも、海の向こうにあるのも、イメージのなかの存在という意味では同じなのだ。

ということは、
イメージのなかの距離(感)はいくらでも操作可能だ、ということだし、
直接的な知覚は特権的なものだ、ということでもある。

それで、よく「世界は狭い」っていうじゃない?
知り合いの知り合いの・・・って5人経由すれば世界中の人がつながる、とか。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)というのは、
その「つながる」感覚を疑似体験できるのが楽しいんだろうと思う。
でもそれは、あくまで疑似体験であり、つながりを想定するというルールを共有しているにすぎない。
むしろたった1回のクリックを根拠に、その関係は
「いつでも連絡を取ることができる」という想像の世界に永遠に封印されてしまうかもしれない。

友だちに友だちを紹介して、世界を「縮める」感覚を味わって楽しむことがある。
でもSNS上で「つながり」が増えていくと、認識の世界がどんどん広がっていくような感覚を味わう。
だから、「近い」と「遠い」は裏表なんじゃないか。


日仏の授業の帰りに、受付に挨拶をして出るフランス人を見かけた。
「!!!」
初めてフランス語を習ったあの先生ではないか。

特に連絡先を聞いたこともなくて、
でも近況を報告したいとずっと探していたのだけど、
日仏を辞めて帰国したという話で、連絡がつかなくなってしまっていたR先生。

5年も会ってなかったから、
似た人を見つけて、この人?いや違う?と思ってたこともあったのだけど、
ピンと来る感じがそのときとは違って、
それでも帰国したはずなのだから、きっと人違いだ、とか
いや、夏だけ戻ってきてるのかもしれない、とか
でもさっき先生の視界に入ったはずだけど、気づいていなかった、とか
そもそも10年近く前のいち生徒のことなど覚えていないだろう、とか
しばらくぐるぐると考えながら駅まで歩く私。

先生こんな格好してたっけ。
せめてバッグとか覚えておけばよかったな。
7~8年も同じもの使わないか。

でも。
本当に本人であるかどうか、それはそんなに重要な問題なんだろうか。
本人かどうかと、話しかけるかどうか、という2つの問いを結びつける必然性はないんじゃないか?

もし違ったとして、その人は無関係ということになり、それだけで完結する。
もし向こうが覚えてなかったら、それだって自然なことだ。
事情を説明して、駅までフランス語会話をすればいい。

でも、もし本人だったら。
今ここで話しかけなければ、もう二度と同じ偶然には恵まれない可能性のほうが高い。

まさに、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。

と思ったらもう私は声をかけていた。
Monsieur, excusez-moi si je me trompe...
私が何も言い終わらないうちに、先生は笑いだした。

その笑顔がとても懐かしかった。

「はじめて会ったとき、君はまだ高校生だったね」
先生はちゃんと覚えていてくれた。

「歳取ったねー」と言って先生はまた笑った。
でもその年月が、先生を認識させてくれたのですよ、と心のなかで私は思う。
だって、自分の知ってる先生に7~8歳足した姿と、前を歩く先生の姿がぴったり重なったから声をかける気になれたのだ。

別れ際に先生は、
「声かけてくれてありがとう。こう見えて僕はシャイだから、自分からは話しかけられなかったよ。」
とおっしゃった。
それがすごく嬉しくて、まるで世界のほうが私に近づいて小さくなったように感じられた瞬間だった。