2011/12/23

retour

一週間の冬休みをつくって「帰省」してきました。



おかえり、と迎えてくれる場所があるのは癒されます。

高校のときの留学先・・・フランスにおける私の原点、故郷です。パリより好きです。
ロータリークラブの交換プログラムで留学していたわけですが、
クラブの会員は、私のホストファミリーを含め、地元のちょっとした名士的な存在で、
地元のバスケット・チームのスポンサーになっていたりします。
そんなわけで留学中はよくバスケットの試合につれってもらったのだけど、ちょうど今回の滞在中に年内最後の試合があったので観戦してきました。



このチーム、去年はなんと、国内リーグで優勝したの!!!!

・・・人口6万人の小さな町だからってバカにしちゃダメよ(笑)

2011年も勝利で終えて、今シーズンも暫定首位。
決勝戦はパリなので、今年も勝ち進んでくれたら応援に行きたいなぁ。

この町もきっといろんな変化を経験したのでしょう。
でも当時言葉もわからず、世間も知らなかった私が見ていた町を、
何年もたってあらためて歩く新鮮さは、たぶん町の変化よりも自分の感覚の変化を反映していたような気がします。

2011/12/16

Barcelona

まだ学期中ではありましたが・・・
授業を終えてその足で空港に向かいスペインまでひと飛び・・・2泊ほどバルセロナに行ってきました♪

今回はオルリー利用だったので空港までも30分ほど、飛行時間は1時間半ほど、
先学期の韓国旅行よりもさらに気軽な小旅行でした。

私のバルセロナのイメージはこんな感じ。
 
道幅が広くて風通しがよい、開放的な都市。
19世紀中盤の都市計画がもとになってるらしいから、パリと同時期なのね。

一方、この幾何学的な都市設計に抵抗するように建っているのが
ガウディに代表されるモデルニスモの建築。
   
といっても直線を極力排した設計も「幾何学的」に計算されたものなのだろうけど。

この両者が共存して、モザイクみたいな街になってるのだ。
   

ちなみにカタルーニャの歴史もとても興味深いのだけど、
たとえばガウディのような建築家は、資本家をパトロンに持っていて、
資本家はどこで資産を蓄えていたかというと、植民地だったりする。

中央と地方の対立は植民地帝国における覇権争いという背景とも切り離せないという議論も耳にしたことがある。

ガウディが設計したミラ邸という個人の邸宅でみつけた2枚の広告がとても象徴的。
    
ネグリタというびっくりな名前のラム酒、知らなかったのだけど、
ココア・パウダーのバナニアくらい有名なコロニアル製品みたい。
(赤い帽子がシンボルのセネガル狙撃兵が幼児語で「オイチー」と言っている様子を象ったバナニアのかつてのあからさまな広告は一応禁止処分となったものの、当時のデザインのブリキ缶など「レトロ製品」としてよく見かける。)

・・・この「レトロ趣味」という名のネオ・コロニアリズムの根強さはけっこう信じがたい。
もう1枚の広告は、Paul Colinの描いたジョゼフィン・ベイカーのシャンゼリゼ劇場公演のポスターなのだけど、このポスターの複製はあとで調べてみたらコレクターがいる。

ジョゼフィン・ベイカーといえば、パリで大ブレイクしたアメリカ出身のジャズ歌手だけど、植民地博覧会で人間を展示していた当時のパリの舞台で彼女がどのような役を演じていたかを考えると、
その賞賛者の一人にやはりバルセロナで活躍したピカソがいることは、じつに絶妙な一致だ。

そんなわけで、フランスとスペインはやっぱり近いのだなーと改めて感じたのでした。

2011/12/07

Pasteur

パスツールといえば、学校に行くとき、乗り換えでいつも通る駅の名前だ。
もちろん、あの細菌学者、パスツールのこと。
そしてここには、パスツール研究所がある。

ちなみにパリの駅名にはほかにも、植民地総督のひとり、ガリエニとか(!)
フランスにジャガイモをひろめた農学者パルマンチエとか
作家のアレクサンドル・デュマとか・・・人名がついてることはよくあるのだけど、
駅名とか通りの名前とかって政治的なもので、けっこう問題含みの選択もある。
名称として使用されるだけで、名前そのものだけが実体とは切り離されて大衆化するから。

というわけで、降りてみた。

というのも、高校のときの友だちが私がパリに来ていると知って連絡をくれたのだ。
いわく、「パスツール研究所で働いてるから会いにおいでよ、案内してあげる」と。

研究所付属の図書館および美術館の案内員をしているらしい。
普段は予約団体の案内を担当してるみたいなのだけど、特別にプライベート見学ツアーを組んでもらいました♪

3000人近くが働いているという研究所だけあって、かなり敷地もひろく、
築120年以上になる建物の荘厳さも併せて、研究所の当時から続く名声の高さを物語っている。
実際、最初の狂犬病ワクチン接種を成功させて以来、世界中から支援が集まって、研究所の創設にいたったらしい。

近代における科学の権力の強さだなーと思う。
まさに「帝国の時代」なのだ。

そういえば、ダカールにもパスツール研究所あったな、と思って調べてみたら、
みごとに、世界にある研究所のほとんどが、この時代に、植民地に創設されたものでした・・・
感染症が「熱帯病」とよばれていたのもよくわかる。

どのような状態をどう判別するか、
医学は「正常」という暗黙の前提を設置するわけで、
最近では帝国医療研究というのも盛んになってますが、
パスツール研究所という組織も例外ではないということでしょう。

ところで、パスツールの生きた時代は、アール・ヌーボーの時代でもあって、
美術館で印象に残ったのは、ガレ作の花瓶。
パスツールの70歳の誕生日に弟子たちがオーダーしたもので、
彼の業績を象徴するデザインがほどこされているのを、こっそり友だちが手にとってみせてくれたのです(笑)
パスツール研究所を見学してみようという発想はなかったけど、新発見でした☆

2011/11/30

identity

今年度、私が受講することにした授業は5種類、隔週の授業があるので週3コマ、
あとは国立図書館で論文を書くという学生生活です。

・帝国史・植民地史
・建国の英雄、ネーションの父:現代アフリカにおける偉人の創造
・パン・アフリカニズム:歴史学および人類学的分析
・奴隷貿易・奴隷制社会およびポスト・奴隷貿易・奴隷制社会の文化・社会史
・イスラーム教サヘル地域(セネガル、マリ、モーリタニア...)の人類学

各授業だいたい10人前後、多くても20人弱くらいのゼミ形式で、
必ず発言を求められるものもあれば、基本的に先生の講義というもの、ゲスト・スピーカーがいる授業まで
いろいろ・・・というわけで雰囲気としては日本にいたころと似ているかもしれない。

日本でも頭のなかに浮かんだことを
論理立てしてコメントしたり質問したりするのは難しいなあと
研究会なんかではつねづね思っているのに、
フランス語で、しかも題材にしてるテクストが英語だったりして、言語間を往復しながら、
きちんと発言できるようになるのか・・・と課題の大きさを目の当たりにした初回はうーん、という感じでしたが、なんか気づいたら口を開くのはあまり億劫ではなくなってきた(日本よりも!)気がします。

アメリカ人のゲスト・スピーカーに指導教員がめちゃくちゃフランス訛りの英語で質問してたから勇気づけられたかしら(笑)

でもこの前初めて受けたサヘル地域の人類学の授業は正直とても難しかった。
なぜかこの授業私を含め日本人が3人もいるんですけどね。マニアック。

しかし授業のあとは、大急ぎで再びケ・ブランリー美術館へ。
ダカール大学の前歴史学科長Thioub先生の講演会に行ってきました。
噂には聞いていたもののいつもすれ違いで(スカイプ面談まではしてもらったのだけど)
なかなかお会いできていなかった先生と初のご対面。

情熱的かつ教育的なすばらしい講演でした。

質問セッションも負けずに情熱的な観客(笑)のおかげで活発な議論が交わされていたのだけど、一番印象に残ったのはアイデンティティに言及されたとき。

話題になっていたのはダカール大学がその名前を継承しているCheikh Anta Diopの議論。ざっくりいうと、古代エジプト文明は黒人文明であったという証明を科学的に行って、「黒人文明」を復権したとされる人物なのだけど、

「『私は黒人だ。そしてそのことを誇りに思う。』という人がよくいるが、私は違う。
たしかに私は黒人だが、そのことについて特に誇りに思うことはない。」

先生のCheikh Anta Diop批判は、
ショインカのネグリチュード批判をそのまま想起させる。

「私が黒人であることは単なる自然の摂理であって、そのことについて、何も私が誇れることはない。」と続ける先生。

「私はこの本を書いた。そしてそのことは誇りに思う。この本を書いたのは私だから。でも私を黒人にしたのは私ではない。自分のしたことじゃないのに、誇りに思うことはないでしょう。」

そう、まさにそれだ。

アイデンティティというと、
自分で自分を規定する要素と他人によって自分が規定される要素があって、
この2つが一致しないと居心地が悪かったりすることは誰でも経験したことがあると思う。
他人によって規定される要素も確実に私のアイデンティティなのであって、
私はそのラベルから逃れることはできないのだけど、個人的には「どうでもいい」というのが率直な印象だったりして。
でもこの印象はあながち間違いではないのだ、ということが
別のかたちで表現されていて、何か、すとん、と腑に落ちたという気がした。

たとえばなぜあなたがセネガルの研究をするのか、という問いの背後には、
なぜ日本人のあなたが、という視点が見え隠れする。
たしかに私は日本人だ。でもたぶんそのことと私がセネガルの研究をする理由はあまり関係ない。

自分のなしたことでなければ誇りに思うかどうか問う必要がないのと同じように、
自分のなしたことでなければ理由づけも必要ないだろう。


ただし、
自然の摂理として片付けられる肌の色もジェンダーも本当は社会的産物なのであって
それをどのように引き受けるか、というのはひとつの意思表示だということも意識されるべきだと思うけど。

だから先生が自分が黒人であることを自然の摂理とあっさりと言ってのけた文脈は、
サンゴールやCheikh Anta Diopのそれとはまったく違ったわけで、それ自体は進展かもしれない。
その進展をどう評価するべきか、という大きな問いはケ・ブランリー美術館という会場にこだまするかのようですが。

2011/11/22

africanistes

前回の留学のときもそうだったけど、
こっちにいるとよく講演会の案内を目にする。

私の専門に関係ある講演会はQuai Branly美術館で行われることが多い。
アフリカ・オセアニア地域がコレクションの中心になっているこの美術館の
「教育的役割」を考えれば不思議はないのだけど、
旧植民地美術館とでもいうべきこの美術館が、
この地域の理解を促進するための良質の講演会を多く開催し続けていることは注記に値するかもしれない。

この前はここでフランス・アフリカ学会があったので顔を出してみました。

このアフリカ学会、正確にはSociété des africanistes(アフリカ研究者協会)といって、
このアフリカニストという表現は大会中にも少し話題になっていたのだけど、
誰がどのような目的で「アフリカ研究」を行うのか、
学会の歴史を辿ってみると、それはアフリカ研究そのものの歴史を反映している。

学会の創設は1930年、アフリカにおける最初の民族調査「ダカール・ジブチ調査団」(1931-1933年)の前夜にあたる。
この調査がフランス人類学の誕生のきっかけになったわけだけど、
調査団の一員だったマルセル・グリオールはのちに会長に就任しているし、
学会の創設メンバーをみれば、
マルセル・モース、ポール・リヴェ、リュシアン・レヴィ=ブルリュなど
数年前に民族学研究所を設立して、まさにフランス人類学を築きあげようとしていた面々なのです。

学会の本部も同じ。
まずは自然史博物館から始まって、
調査団の「成果」を展示することが当初から想定されていた人類博物館が完成すると、そこへ移動。
「アフリカ研究」は自然史(形質人類学)から民族・人類学という新しい学問へと移行していったというわけ。
人類博物館がQuai Branly美術館に吸収されたので学会の本部は今はここにある。

文化人類学がその後植民地主義と決別していく過程は省略するけど、
人類博物館はパリ万博の施設の跡地につくられたこと、
もうひとつの博覧会、「植民地博覧会」の会場となった植民地もとい海外領土美術館のコレクションの移転先がQuai Branly美術館であること
(植民地博の会場自体は現在移民博物館になっている経緯については昔の記事に)
を考えると、「アフリカ研究」はしっかりとその歴史を背負っているといえそう。

ちなみに戦後の人類学の巨頭といえば、マルセル・モースの後継者といわれるレヴィ=ストロースと
まったく学風を異にする(2人は犬猿の仲だったという)ジョルジュ・バランディエで、
私の学校のアフリカ研究所の創設者がバランディエです。。。

2011/11/15

cite universitaire et...universelle?

家の窓からはモンパルナスタワーが見えます。
学校からも遠くなくて何かと便利なので、ときどき行くのがこのモンパルナス地区。
そういえば、前回パリに留学したときも、着いたばかりのころはこのあたりにいたのを思い出す。

このあたりは戦間期、パリが芸術の都として復興しつつあった「狂乱の時代」に
世界中の芸術家が集った地区だった。

同じころ、世界中の学生、芸術家を集めて平和を推進しようという目的でつくられたのが、国際大学都市。
友だちが住んでいたり、いろんな催しがあったりして私もときどき行くところ。
その名の通り、主に留学生向けの寮が集まってひとつの集合住宅を構成している。

日本館、インド館、スウェーデン館のように各国政府が経営している寮もあれば、
国際大学都市、つまり国立法人が直接管理しているイタリア館、カンボジア館、アフリカ館(旧「海外領土館」!)などの寮、あるいは私立財団が管理しているところもある。
最初にできたドゥッシュ・ド・ラ・ムルト財団経営の寮がその例。

で、この寮は、セネガル初代大統領サンゴールさまが住んでいたところなのです。
サンゴールの前にはブルギバ(チュニジアの初代大統領)やサルトルも住んでたみたい。
サンゴールなんて、一番よく勉強したのはここに住んでたとき、と証言してるくらい。
ちなみに、このサンゴールとブルギバ、2人ともフランコフォニー国際機関の創始者というのは偶然ではないでしょう。

もうひとつ興味深いのはカンボジア館。
1957年カンボジア独立に伴って開館するも、1970年の内戦の煽りで閉館、30年後に国際大学都市の管理のもとに再開、と歴史をもろに反映している。
しかも、国立法人の管理下に入ってからは、レユニオン島(フランス海外県)と協定を結んでいて、
レユニオンの学生が優先的に入寮できるようになっているとか。

共和国の文化政策は、フランスが文化を糧に復興してきた歴史を・・・現在まで引き継いでいるということか。

2011/11/05

l'implusion dans l'equation

朝、あたたかい飲み物を口にして、目が覚めていくのを感じるとき。
家に帰って腕時計をはずす小さな動き。

至福の瞬間っていろいろあるけど、
密かに私は本を買う瞬間が好きだ。

それが学術書であっても、小説であっても、
その小さな紙面から無限に広がる未知の世界を想像するとわくわくする。

そんなわけで、
ちょっとしたストレス解消に、あろうことか本を衝動買いしてしまった(笑)
しかも300ページ以上のけっこう分厚いやつ。
留学生活、何が問題って、どんなに頑張っても荷物が増えること、
本なんて大敵、そんなことは百も承知のはずなんだけど・・・

ていうかレジ横に普通の本が積んであるってどうなのって気もするけど、それはさておき。
買ったのはYasmina Khadraというアルジェリア作家の最新作"Equation africaine".
アルジェリアが続くけど、この人確か日本にも来てたことがあって、ずっと気になってたんだよね。

舞台は東アフリカ。ソマリア、ジブチ、スーダン。
東アフリカはぜんぜん知らない。
でもその地域を通して世界を見る登場人物たちそれぞれの視点、
それぞれが痛々しいほどナイーブなのに、
みごとに1つの世界を創りあげている、という感じ。

ソマリアの海賊
難民キャンプの人びと
人道支援に出かける資産家
アフリカに住み着いたフランス人民族学者
そしてはじめてアフリカの地を踏むドイツ人医者

どの視点も自分のなかにあって、それがちょっと居心地が悪い。
でもそれがすごく現実的なのだと思う。

失敗に生き残りの活力を吹き込むこと
後悔や悪いことは過去にゆだねること

文中に散りばめられた信念はとても力強い。
その強さは、ときに重くのしかかり、でも必ずどこかに希望を秘めている。
たとえば日々のルーティンのなかにも小さな至福があるのと同じかも。

この300ページのなかに広がっていたのは未知の世界ではなくて
ほかでもない私のよく知る世界だったのかもしれない。
でもよく知るルーティンに埋もれた小さな至福を思い出させてくれる一冊でした。

ほかにもアフガニスタンイスラエル、イラクを舞台にした小説が代表三部作とされてるみたいなので
読んでみたいなと思ってるところ。最初の二冊は日本語にも訳されてるのでみなさんもぜひ☆

2011/10/19

crime de seine

夕方、サン・ミッシェル橋を渡っていたら人ごみに遭遇した。
よく見るとアルジェリアの旗を掲げている。
そう、10月17日は「セーヌの罪」といわれる、フランス警察によってアルジェリア人が虐殺された日なのだ。

1961年10月17日。
つまりアルジェリア戦争の只中である。
当時フランス、とりわけパリでは在仏アルジェリア人の「動員」をめぐって
独立派FLNとフランス当局が激しく対立していた。
独立戦争は当然「本国」でも戦われていたということになろう。

当時警視総監だったパポン氏はFLNの活動を弾圧すべく、
「イスラーム教フランス人」(=アルジェリア人)に限定して夜間外出禁止令を発令、
この差別的措置に抗議して、FLN側がデモ行進を行ったのが10月17日のことでした。

しかしこのデモを当局は激しく弾圧、何十人あるいは何百人ものアルジェリア人が
セーヌ川に投げ込まれるなどして虐殺されたのです。

当局が直接関与した虐殺、つまり国家的犯罪になるわけですが、
記憶の復元はようやく始まったばかりというところ。

このパポン氏というのは、
実はVichy政権時代にジロンド県知事としてユダヤ人の強制収容所移送に関与した罪で
80年代に起訴されてからかなり長い間係争が続いて、メディアでも大きくとりあげられた
「パポン裁判」で有名な人物なのだけど、
97年にようやく裁判がはじまってから、関連してこの事件についても国家機密が公開されることになったらしい。

このあたりの時差が「記憶の政治」における地政学を反映してる気がしてならない。

良し悪しの評価を抜きにして、例えばユダヤ系ロビイングが強いのは確か。

パポンの一件が報道されたのも大統領選前夜のことで、
政権交代を実現した社会党は、この一件でユダヤ人票を獲得したといわれている。
(パポンは前政権で大臣を務めていた)

そもそも80年代に起訴されるまでパポンは政治家だったのだということ、
そしてド・ゴールによって勲章レジオンドヌールまで授けられているということ自体、
「共和国の罪」の根深さを感じさせるのだけどね。

2011年は50周年にあたるので、集会の規模も大きかったみたい。
前日社会党の代表選に勝利したばかりのオランド氏も献花に訪れたとか。
・・・再び政治利用のにおいがしなくもないが、
記憶とは常に演出されることによって現代に留まることができるのだとすれば、
政治性はまぬがれないのかもしれない。

1961年10月17日をめぐってよく引用されるのがカテブ・ヤシンというアルジェリア人作家の詩。

Peuple français, tu as tout vu     フランス人民よ、きみはすべて見た
Oui, tout vu de tes propres yeux.   そう、すべてを、きみの目で見たのだ。
Tu as vu notre sang couler        きみはわれわれの血が流れるのを見た
Tu as vu la police             きみは見た、警察が
Assommer les manifestants      デモ行進する者たちを叩きのめし
Et les jeter dans la Seine.        セーヌ川に投げ込むのを。
La Seine rougissante           赤く染まったセーヌ川は
N’a pas cessé les jours suivants    それから幾日もとめどなく
De vomir à la face             吐きつづけた
Du peuple de la Commune       コミューンの人民の顔に
Ces corps martyrisés           殉教者の身体を
Qui rappelaient aux Parisiens     その身体は パリ市民たちに
Leurs propres révolutions       彼ら自身の革命
Leur propre résistance.        彼ら自身の抵抗を想起させる。         
Peuple français, tu as tout vu,     フランス人民よ、きみはすべて見た、
Oui, tout vu de tes propres yeux,  そう、すべてきみ自身の目で見たのだ、
Et maintenant vas-tu parler ?     さあ、きみは話すのか。
Et maintenant vas-tu te taire ?    さあ、きみは黙るのか。


2011/10/11

transport

相変わらずフランスでは日常的にストが行われている(笑)
で、ストが一番多い、というか目につくのは、やはり交通機関。

パリの公共交通といえば、メトロ、バスのほかにRER(Réseau Express Régional:地域急行鉄道網)といわれる郊外と都心を結ぶ電車がある。

フランスの各都市を結ぶ路線はフランス国鉄SNCF、パリのメトロやバスはパリ交通公団RATPがそれぞれ運営しているのだけど、ストの交通機関への影響を伝えるニュースを見ていて、初めてこのRERの運営がA~Eまである路線によって違うことに気づいた。

気になってちょっと辿ってみたら、
RERは戦後のパリ開発に沿ったかたちで発展していて、
パリ再開発でも有名なラ・デファンス地区(A線)、新しく建設されたCDG空港(B線)と
市内の中央市場跡の再開発地区レ・アルとを結ぶ路線はそれぞれパリの都市計画の一環としてRATPが運営している。

それに対してもともとあった郊外路線がパリ市内に乗り入れたC~E線はSNCFの運営。

パリは近代になってから整備された街だし、
特に公共交通が発達したのは戦後になってからということもあって、
鉄道網を通して開発を進めるという典型的なパターンがはっきり見えるというわけだ。

そしてサルコジ政権の発表した大首都圏構想"グラン・パリ"という開発計画も結局同じ発想という気がする。
現に、はじめてパリに来てから数年の間にも、地下鉄やRERが郊外までどんどん伸びているのがわかる。
つまり、地方をそれとして発展させるのではなく、
大都市と連結させていくクラスターという発想・・・いかにもネオリベラルという感じ。

今、近代化を目の当たりにするというのはなんだか不思議な気分だ。

2011/10/07

a la recherche de la lumiere

パリという街の魅力に触れたついでに、太陽の最後の光を追って、ちょっと郊外まで足をのばしてみる。
といっても、市内からメトロで一本なのだけど、終点近くまで行くと、
そこはサン・ドニ。

パリというのは行政単位としては県にあたるもので、
パリのあるイル・ド・フランス地方は、
パリを囲む3県の近郊と、さらに外側の4県、併せて8つの県から構成されていて、
サン・ドニはその近郊のひとつ、セーヌ・サン・ドニ県のなかでも一番大きな町。

パリ第八大学もここにあります。
・・・でも今日は大学じゃなくて、教会に行ってきました。



聖ドニというのは、例の、斬首されたモンマルトルから自分の首を持って歩き続けたという逸話の聖人で、その彼が息絶えた地に建てられたというのがサン・ドニ大聖堂。

メロヴィング朝のダゴベルト王の庇護を受けて以降、
併設された修道院も、特に中世の間はベネディクト派の有力な修道会として名声をあげたり、
フランス歴代の王が埋葬されていたり、(ルイ14世の心臓まで展示されていました・・・)
政治的にかなりの要所といえるようです。

建築的には、というかこれも政治的といえるのかもしれないけど、
12世紀に院長となったシュジェールが大改築を行って、初代ゴシック様式といわれる
技術をたくさん取り入れたことでも知られています。
なかでもやはり光の殿堂を築いたといわれるだけあって、
バラ窓をはじめとするステンドグラスは圧巻。


ちなみにシュジェールはルイ7世の摂政もつとめていて、パリのノートルダム大聖堂の改築も手がけたらしいので、初期のゴシックを定着させた人物といえるのでしょうか。

教会って政治と宗教の結びつきをまさに具現化したような場なんだなぁと感じる空間でした。

そしてもちろん、歴史も。
シュジェール自身、歴史家という肩書きも持っていることからもわかるように、
「公定フランス史」というのは修道院から出てくるわけだし。

でも、それだけではなくて、たとえば時代ごとの埋葬の仕方の変遷をたどっていくだけでも
その時代のいろんなことがもっと見えてくるのではないかという気がしました。

そうそう、14世紀ごろの墓石にはよく動物(だいたい犬、獅子みたいなのも)が
死者の横臥彫像(gisant)の側に置かれている(あるいは死者が足をのせている)のだけど、
どういう意味があるのか、誰かご存知の方、教えてください。

それにしても、これだけのところだから当然、フランス革命の標的になって、
大分破壊されてしまうのですが、
19世紀には修復されていて、個人的にはルイ16世とマリー・アントワネットの拝跪彫像(priant)まで復興(?)されていたのが印象的でした。

2011/10/01

ville de Paris

街頭の木はすっかり色づいているのだけど、
パリはここのところ連日の陽気で、
みんな夏の最後のひとかけをつかまえようと、競って外に出ています。

というわけで、私も友だちに誘われて美術館に行ってきました。

パリの北のほうにあるロマン派美術館(Musée de la Vie Romantique).
もともとAry Schefferという画家のアトリエで、肖像画家として知られていた彼のもとに
ドラクロワ、ジョルジュ・サンドとショパン、リスト、ツルゲーネフやディケンズなど当時の名だたる芸術家たちが通うちょっとしたサロンになっていたみたい。

この建物、歴史を辿ってみると、まさに19世紀のパリを映し出していてなかなか興味深い。
建物の建設はパリの人口が急増してきた建設ラッシュに乗っていて、
建築スタイルは復古王政期のものだったり、
1848年の2月革命の際には、亡命を余儀なくされた王家のコレクションがこのアトリエに密かに移されたり、
1870-71年のパリ・コミューンのときは、避難所になったり。

それで、このアトリエだった部分は夏の間だけサロン・ド・テになっていて、

  

庭の植物に囲まれながら思い思いに、お喋りをしたり、本を読んだり、
ロマン派時代の優雅なひとときが連想されるようでした。

ところで、モンマルトルの近くにあるこの美術館には、パリを縦断するメトロに乗って行ったのだけど、
パリは大雑把にいうと、南北×東西で4つの地区で性格が大分異なっていて、
メトロに乗って、それぞれの雰囲気を体験するのはけっこう楽しい。
そして何より、こうやっていろんな“世界”の存在を常に目の当たりにすること、
それがパリに住むことだと思う。

等質性に埋没するのが心地いいことは確かだけど、
世界の面白さというのは、居心地が悪いくらいの多様性のなかにあって、
自分もその多様性を構成するひとり―“異邦人”―であり続けることはきっととても大切なことだ。
パリという街は、よく見ると、そんな刺激にあふれている。

2011/09/29

decollage

さて、再びパリ。

3度目のフランス留学、パリ生活も2度目となると、
あまり違和感なく、
それでも毎日いろんなことが起きる緊張感のなかで、
新生活が始まりました。

そして今日は念願の指導教員と初対面@フランス国立ラジオ局。

先生はラジオ番組を持っていて、
私もお会いする前からお声だけ拝聴していたわけですが、
昨日そのお声で電話があって(!)学校の登録に必要なサインをいただく約束をしたわけです。

ラジオ・フランスっていうのはフランスの公共放送を一手に担っている巨大なラジオ局で、
先生が番組を持っているのはその国際部とでもいうのかな、
ラジオ・フランス・インターナショナル(RFI)。
国際ニュースを多く扱ってたり、いろんな言語で放送していたりするので、世界中にリスナーも多くて、
日仏の授業でもよく使ってたのだけど、なんと予算は外務省らしい。

セネガルの友だちが、RFIのニュースは視点がフランス的だと言っていたのをよく覚えてる。
要するに外交手段なわけだ。
今風にいえばソフト/スマートパワー、19世紀風にいえばconquête moraleというところ・・・言いすぎかなw
でも、その辺りの徹底ぶりはさすがフランスという感じがする。

論文審査のために3日間だけパリに立ち寄ったという先生、
話しながら、あっという間に書類を仕上げて、10分くらいで面会は終了。
10月に面談してもらう約束をしたので、勉強しなきゃ・・・

でもこれで学校の登録の一番大きなステップが完了したことになります。
あとは書類をそろえて提出、そのまま受理されれば、
たぶん・・・1ヶ月後には学生証ももらえるでしょう(笑)

ちなみにこれからも面談のたびにときどき訪れることになりそうなラジオ・フランス、
16区、セーヌ川沿いにあって、今日みたいに天気がいいと、ちょっとしたお散歩気分♪