以前留学していたときに習ったカリスマ・
バディ先生の影響か、
国家というアクターが前面に出まくっているオリンピックを見ると、
どうも時代遅れという気がしてしまう。
特にスポーツ中継というのは、マス・メディアに支えられているどころか、
メディアを支える側に逆転させられていて、そのレトリックが見え透いているので
余計につくりあげられた感じがするのかもしれない。
(ルールまで変わっちゃってつまらないと思う私の感覚のほうが「時代遅れ」なのかしら。。。)
メディアによって国家の共同性が演出されていることは、
震災のときにやはり抵抗感を持ってはっきりと体感したばかりだ。
でも国家というのはひとつの枠組みにすぎず、
風土ごとに根付いていかなくてはならないものだとしたら、
その土地や年数によって違った価値が見出されてしかるべきかもしれない。
アフリカの国家誕生を扱っているとそんなことをよく思う。
それどころか、
外国にいると、
フランスにいると、
パリで移民として、移民と接して、
自分の周りに国境が現れては消えていくのを見ていると、
日常として国家というものの扱いを考えることになる。
当のオリンピックは旅行特権でテレビからも離れていたこともあって
ほとんど追わず追われずだったのだけど、それでもフランスの新聞で気になる記事を発見。
サウジアラビア初の女性選手のオリンピック出場
ただしスカーフをまとうという条件つき
というもの。
今年のサウジアラビア選手団の女性選手は2人。
そのうち最初に試合があってまさに史上初めてサウジを代表して国際舞台に立った女性として
柔道のWodjan Ali Seraj Abdulrahim Shaherkani選手が取り上げられていました。
彼女のことが大きく報道されたのは、たぶん彼女が史上初だったからということ以上に、
スカーフの着用と柔道という競技の性質との間に齟齬があるとして一悶着あったから。
イスラームの「スカーフ問題」はここ20年くらい、フランスをはじめヨーロッパでずっと議論を呼んでいるわけだけど、結局は同じ争点が、この報道の機会に乗って表出してきた、という感じだ。
今年はサウジ、カタール、ブルネイから女性の参加が認められたことで、参加国・地域すべての代 表団に女性が入った記念すべきオリンピックであるとされている。
でも「今回のことが女性参加の幅がひろがる機会になることが望まれる」一方で、
「女性解放の場となり得たスポーツにまで蒙昧主義が侵食してきている」と嘆く声もある。
たとえばFIFAは競技中スカーフの着用を認める方針を発表したけど、
FFF(フランスサッカー連盟)は所属選手のスカーフ着用を禁止したみたい。
公の場に出ること。
スカーフをつけた存在が個として認められること。
スカーフを外した姿を個として表現すること。
なにが解放なのだろう。
そしてそれは誰が決めるのだろう。
国際柔道連盟は当初の決定を覆してスカーフに代わるものを着用することを許可し、
サウジ女性選手初の国際試合となったのだけど、
サウジの旗を笑顔で振る報道写真を見ていると、
若干16歳の彼女の身体ひとつでは、いずれにしても
象徴させられるものがあまりにも大きすぎるように思えるのでした。