2012/09/05

La Bastille

そんなわけで訪れたのがグルノーブル。

個人的には昔チューターした子たちが2人ともこの街から来ていたので機会があれば行ってみたいとずっと思っていたのです。

グルノーブルの名所といえばバスティーユの丘。
「バルーン」とあだ名のついた、丘にあがるための
まーるいケーブルカーが写真にうつってるのがわかるでしょうか。

ところでバスティーユというのはもともと城塞という意味の普通名詞ですが、定冠詞のついた大文字の固有名詞ラ・バスティーユといえばパリのバスティーユ広場を想起するひとも多いはず。ここも牢獄になる前はもともとパリの外につくられた城塞だったのよね。

でも実はグルノーブルにあるもうひとつのラ・バスティーユは革命で有名になったパリのバスティーユにちなんで名づけられたのだそうです。

というのもフランス革命の中心となった一派がグルノーブルから来ているから。

革命の起きた18世紀末のフランスは財政難で税制の改革が争点になっており、特権階級を擁護する高等法院と貴族からも徴税したい王室は対立していたのだけど、税制改革を推し進めるために高等法院の権限を大幅に制限する司法改革を王室が発表すると、特に強く反発したのがパリとグルノーブルの高等法院だったのだ。

高等法院は特権階級だけど、全国三部会の召集という点では民衆と要求は同じ。
というわけでグルノーブルに向けられた国王軍に対し、市民は屋根瓦を投げつけて撤退に追い込む。バスティーユ襲撃前年のこの「屋根瓦の日」は革命の前兆として位置づけられているというわけ。

このあとにグルノーブルのあるドーフィネ地方三部会、そして全国三部会と続いていくのですが、
そのなかにいたBarnaveやMounierといった人物の名前が革命におけるグルノーブルの中心的役割を象徴してるといえるのでしょう。

史学科の学生がこんなおおざっぱな歴史を書いたら怒られそう・・・

で、グルノーブルのバスティーユは19世紀にサヴォアからの攻撃に対する砦として建設されたのだけど、結局ナポレオン3世時代にフランス領となったために一度も砦として使われることはなかったみたいです。

2012/08/31

invitation au voyage



    
  三つの空と三つの山
  
  さて、どこでしょう??

  この夏は少し旅行をしました。

  たとえば美しい風景が画家や詩人に
  インスピレーションを与えたり、
  文化的教養が俳優や演奏家の表現に
  幅を与えたりするのと同じで、
  旅行には日常的な営みを豊かにする源があると思う。

嫌なことがあったとき、思い出すことができる美しい体験が必要だと言っていたひとがいたけれど、
旅行における非日常はその役割を果たしてくれるのかもしれない。

よく旅をするひとは行く先で出会うひとびととの違いよりも似ているところに惹かれていくもので
その土地の特徴を通して結局人間というものを見ていることに気づくという。

同じ夏空の下にそびえる三つの山を見ていたらそんなことがわかった気がしたのでした。

2012/08/07

Etat representé

以前留学していたときに習ったカリスマ・バディ先生の影響か、
国家というアクターが前面に出まくっているオリンピックを見ると、
どうも時代遅れという気がしてしまう。
特にスポーツ中継というのは、マス・メディアに支えられているどころか、
メディアを支える側に逆転させられていて、そのレトリックが見え透いているので
余計につくりあげられた感じがするのかもしれない。
(ルールまで変わっちゃってつまらないと思う私の感覚のほうが「時代遅れ」なのかしら。。。)
メディアによって国家の共同性が演出されていることは、
震災のときにやはり抵抗感を持ってはっきりと体感したばかりだ。

でも国家というのはひとつの枠組みにすぎず、
風土ごとに根付いていかなくてはならないものだとしたら、
その土地や年数によって違った価値が見出されてしかるべきかもしれない。

アフリカの国家誕生を扱っているとそんなことをよく思う。
それどころか、
外国にいると、
フランスにいると、
パリで移民として、移民と接して、
自分の周りに国境が現れては消えていくのを見ていると、
日常として国家というものの扱いを考えることになる。


当のオリンピックは旅行特権でテレビからも離れていたこともあって
ほとんど追わず追われずだったのだけど、それでもフランスの新聞で気になる記事を発見。

サウジアラビア初の女性選手のオリンピック出場
ただしスカーフをまとうという条件つき

というもの。

今年のサウジアラビア選手団の女性選手は2人。
そのうち最初に試合があってまさに史上初めてサウジを代表して国際舞台に立った女性として
柔道のWodjan Ali Seraj Abdulrahim Shaherkani選手が取り上げられていました。

彼女のことが大きく報道されたのは、たぶん彼女が史上初だったからということ以上に、
スカーフの着用と柔道という競技の性質との間に齟齬があるとして一悶着あったから。
イスラームの「スカーフ問題」はここ20年くらい、フランスをはじめヨーロッパでずっと議論を呼んでいるわけだけど、結局は同じ争点が、この報道の機会に乗って表出してきた、という感じだ。

今年はサウジ、カタール、ブルネイから女性の参加が認められたことで、参加国・地域すべての代 表団に女性が入った記念すべきオリンピックであるとされている。

でも「今回のことが女性参加の幅がひろがる機会になることが望まれる」一方で、
「女性解放の場となり得たスポーツにまで蒙昧主義が侵食してきている」と嘆く声もある。

たとえばFIFAは競技中スカーフの着用を認める方針を発表したけど、
FFF(フランスサッカー連盟)は所属選手のスカーフ着用を禁止したみたい。

公の場に出ること。
スカーフをつけた存在が個として認められること。
スカーフを外した姿を個として表現すること。

なにが解放なのだろう。
そしてそれは誰が決めるのだろう。

国際柔道連盟は当初の決定を覆してスカーフに代わるものを着用することを許可し、
サウジ女性選手初の国際試合となったのだけど、
サウジの旗を笑顔で振る報道写真を見ていると、
若干16歳の彼女の身体ひとつでは、いずれにしても
象徴させられるものがあまりにも大きすぎるように思えるのでした。

2012/07/27

IMA

1年間の「隠遁」生活の埋め合わせというわけでもないけれど、
今月は週1のペースで展覧会を訪れました。

こっちの展覧会は開催期間がけっこう長いのだけど、
「書き入れ時」という発想はないので休暇期間になると、
だいたいいろんな催しも終わってしまうので、駆け込みで。

で、実は初めて足を踏み入れたのが、アラブ世界研究所。
ジャン・ヌーベルの建築が美しいこちら↓
 










「身体」をテーマとした作品を集めた「発見された身体」展のコンセプトは
身体を覆う装いが強調されるイスラーム世界に対して極めて挑戦的にも思える。

この施設はいったい、どのように位置づけられるのだろう、と思っていたら
ちょうど現所長の退任表明がニュースになっていた。
なんでも新外務大臣のファビウス氏が「運営体制の刷新を通して、研究所の改革を図る」方針を発表したのだとか。

ということは、この機関は外務省の管轄にあるらしい。
現所長のミュズリエ氏はサルコジ時代に外務大臣も経験しているUMP党員の議員で、
政権交代の影響をもろに受けるのも納得がいく。
ちなみにマルセイユ出身のミュズリエ氏は地中海連合の推進者の1人。

外交の中に組み込まれたこの文化施設は、まさにフランス政治の一角だ。

1987年、開館にあたって当時の大統領ミッテランが行った演説はこう結ばれている。
「この研究所を通して、われわれフランスが他の民族に対して友情と愛情と敬意を示すことを任務としていることを伝えたい」

フランスとアラブ世界の交流を促進することを目的とする研究所は、
フランス政府とアラブ連盟の加盟国との連携の場として構想されたのだけど、
演説のなかでは「われわれフランス」と「あなたがたアラブ」の二分化が極めて鮮明になされているのも印象的。

フランスには「任務」があって、交流は「支援」「アラブ諸国の発展へ向けた努力への理解」という定義を与えられていたりする。


・・・研究対象で扱ってる1940、50年代の文章とトーンが同じだわ。

それもそのはず、ミッテランは1950年代の海外領土省(旧植民地省)大臣なのです。

そのあたりの連続性も掘り下げる必要がありそうですが、
選挙期間中さんざんフランソワ2世と評されたオランド政権下で研究所はどういう方針をとるのか、
11月の所長交代も注目です。

2012/06/15

Expérience passe science



(再)留学1年目の成果を具現化するとこんな感じ。

ようやく、という気分だけど、今の学校に正式に登録してから正味半年というところでしょうか、
例の仕事場で取り組んできた論文が受理されました。

計画通りにことが運ばないというのは研究の常で、
むしろ矛盾があることが解法の鍵になったりするものではありますが、
そもそも計画を立てることすらできないのがフランスという場であります。笑

そんなわけで最後の最後までサプライズでいっぱいの行程を紙面に収めるのは
ちょっとした力技だったけど、その分達成感も充分。

審査の冒頭で謝辞を述べるのだけど、形式を超えて本音が表われているのが伝わったのか、
指導教員も微笑をもらしていました。

なぜって、たとえば審査の日程調整まで私がやったので、
「お集まりいただいてありがとうございます」なのだ。

審査員は主査となる指導教員が副査を指名して、その審査員同士が指定の期間内で日程を選択することになっているのだけど、主査も副査も出張×出張で、
お会いするたびにその旨をそれぞれ私に伝えてくるので、
提出1週間前にして、今、1階に○○先生がいらっしゃるので、と指導教員を研究室から
ひっぱり出してしまいました。

しかも

日程調整が難航したために、指導教員が2人目の審査員を指名していて、
結果審査員は3人になるという展開。

この2人目の副査というのがダカール大学の先生なのだけど、
審査を引き受けてくれるという のでてっきりパリに出張なのかしら、と思ったら、
その連絡をくれた指導教員のメールには気になる続きが書いてありました・・・







そんなわけで「お集まりいただ」けなかったのだけどね。
だいたい日程調整が難航したおかげで、スカイプ審査は翌日に延期になってしまったことが、
審査当日に伝えられ、まさかの2日連続審査だったのでした。

でも審査に入ってくれた3人の先生は3人とも、
とっても振り回してくれたけど、それだけお世話になった先生でもあるので、
その豪華メンバーが、なんと1人約1時間ずつくらい、コメントしてくれたのは
すべての行程のとっても贅沢なハイライトだったに違いないのです。

ちなみにこの1年は、来年以降の足慣らしだったのだけど、
準備運動には十分すぎるくらい、いろんな経験をさせてもらったような。

経験は「させてもらう」ものだというのは、中高時代に教わったのだけど
こうして振り返ると、まさにその感覚が鮮明に浮かんでくる。

経験になることは、突然振ってくるからこそ、試されるものの、
それが経験になるころには、既に獲得されたものとなっているということ。
その意味で、経験は与えられるものなのだ。

それに試練になることは、そうそう1人で乗り越えられるものじゃない。
いろんな方向から支えられて、やっと乗り越えると、経験が得られる。
だからその経験は、いろんな手によって与えられているのだ。

この経験をさせてくれたすべての人に
この場を借りて、改めてここに謝辞を記したいと思います。

2012/05/16

changement!

ついに大統領選が終わり、フランスでも政権交代が実現しました。
まあ、新政権にどれだけ期待できるかは別として、
左派政権になって形式だけでも変化があったことは確か。

新内閣は公約通り男女同数。これって実はフランス史上初なんです。
相変わらず、女性に割り当てられる省庁ってだいたい決まってるんだけどね。
「王権的」といわれる権力の大きな地位についた唯一の女性は法務大臣になったChristiane Taubira氏。
しかもこのひとは仏領ギアナの出身の議員なのよね。

なにで知られているかというと自身の名前がついたトビラ法。(2001年5月10日)
これは大西洋の奴隷貿易とそれに伴う奴隷制を「人道に対する罪」として成文化した法律で、
この法律が可決された日を記念して5月10日は奴隷貿易、奴隷制とその廃止を記念する日と定められているのです。

でもやはりこうして成文化したり(それも「人道に対する罪」という新しい概念で)
記念日をつくったりするのは、記憶の政治というロビイングのひとつでもあるわけで、
奴隷制という非常に複雑なシステムを大西洋の交易に収斂させてしまったり、
システムそのものの解明よりも、その廃止が「人道的な正義」の行為として強調されたりすることで
見えにくくなっている問題があるのも事実。

ちなみにトビラ氏は政治活動を始めた当初は独立派として活動していたのだけど、
それが特に80年代のミッテラン政権以降、次第に立場を軟化させていった経緯のある人物。

彼女が「フランスの」法務大臣としてどのように「国家の正義を守る」のか
(フランス語で法務大臣は通称garde des Sceaux、つまり国璽の管理者とされる)
要注目です。


2012/04/30

bibliotheque

今日は私の「仕事場」のお話。
いきなり余談ですが、仕事をあらわすtravailという語は、目的を達成するための人的営為のことを指していて、そのなかに学生の営みも入るというのは面白いなあと思います。
つまり日本語では「勉強する」という表現は、フランス語では「仕事する」と同じ動詞(travailler)で表現されることもある。
もちろん英語のto studyに近いétudierという動詞もあるのだけど、travaillerってそれが物理的であれ知的であれ、一定の作業によって変化を加えるというニュアンスがあるから、もう少し創造性が高い気がする。そして知的作業に関していえば、インプットとアウトプットの両方がうまく融合された表現だなと思うのです。

で、そんな「仕事」に勤しむのは国立図書館。
国立図書館というのは、日本の国会図書館みたいな感じかしら、
とにかくフランス中の出版物のほとんど、約1000万冊がここに所蔵されているので
パリ中の研究者たちが、そして休みになると世界中のフランス研究者たちが集う拠点になっています。

ちなみに私が通ってるのはミッテラン政権時代に企画されて1990年代になってオープンした新館。
フランスは文化政策(つまり文化レベルに国家が大きく介入するということ)の長い歴史を持ってるけど、そのなかでも大きな役割を果たしたのはミッテラン政権下の文化大臣ジャック・ラング氏。
芸術を営むひとにとっては特に、いろんな批判があるのも確かだけど、個人的な概観として、フランスの「文化」の幅がぐっと広がって、新しいものが育つ素地をつくったのは彼の改革によるところが大きいのではないかという気がします。
でもそのラング氏と並んで、大統領自身も文化的なプロジェクトに着手していたことで知られている。
この新館もそのひとつ。他にもルーブルのあのピラミッドをつくったり、バスティーユの新しいオペラ座もやはり大統領プロジェクトの一環で、なんかやっぱり国家権力の顕示という感は否めないよね。

とはいえ、こうして大統領が何か記念建造物を残すというのは、ポンピドゥー以降のしきたりになっているのだけど、それが皆そろって文化施設だというところが、やっぱりフランスのすごさだと思うのだけど。

それでもミッテランのプロジェクトはやはりどこか革新という傾向を貫いているのも確か。
この国立図書館新館の建てられた13区には、パリ大7大学、国立東洋言語文化学院(INALCO)も移ってきて、それに伴って大手の本屋も開店したり、だんだん学生街になりつつあって、
(ソルボンヌを中心にパリ大学が集中する従来の学生街カルチエラタンに対し)新・カルチエラタンを称するようになっているらしい。

新館というからにはもちろん旧館があって、場所も右岸。
もともとはルーブル宮にあった王立図書館が起源で、フランス革命以降王室の財産が国有化されていった流れで国立図書館が組織化されていったというわけだ。

ちなみに旧館は円形の壁にずらりと蔵書の並ぶクラシックな内装なのに対し(左)
新館はドミニク・ペローの設計で、ガラス張り、20階建てというかなりモダンな外観(右)

       



ところでなんでこの図書館という施設の話をしようと思ったかというと、
フーコーの手稿の所蔵先をめぐって2つの施設が対立しているという記事を目にしたからなんですが。そのうちの1つがこの旧館にフーコー自身が足しげく通ったという国立図書館。
もうひとつが現代出版資料館(IMEC)でこちらも大多数のフーコー・コレクションを持っているとか。

実はこの2つの施設、バルトの手稿をめぐっても対立して軍配は図書館にあがってるんですね。
でもこのまま「内輪もめ」していると、フーコー研究の拠点を築きつつあるアメリカの大学群に「国宝」とられちゃうよっていう記事。

なるほど知的営みも国家の財をなすのだというのがダイレクトに感じられる場なのでした。