2009/05/19

partage du sensible

今学期取っている授業の1つに「文学の政治」というのがあります。
これはJacques Rancièreという哲学者の書いた文章のタイトルなのですが、
文学者の政治参加とか、政治的な内容を扱っているとか、そういう意味での政治性ではなくて、
文学そのものが内包している政治的な性質について論じるというもの。
要するに一見政治とは無縁に思えるような作品
(実際に本文で例示されているのは19世紀のものがほとんど)にも、
広い意味で政治的と呼べるような特性を見出そうとするところが示唆的。

そこで提示されているのがpartage du sensibleという概念。
partageというのは、part=部分にする、ということがだから、分割するという意味もあるのだけど、
レストランなんかで、一品を“シェアする”ときにも使う単語で共有する、という意味もある。
たとえば1つのパイを2人で半分ずつにするとき、半分にする、という点では分割だけど、同じパイを分け合うという意味では共有になるという、その両義性をうまく表わした単語なのです。
sensibleというのは、感覚可能なもの、ということだから、
partage du sensibleは、世の中の感覚可能なものとそうでないものの境界線、
あるいはそれに内包されたものを指す概念となる。
私たちが何かを感じることができるのは、それが感覚可能なものとして共有されているからで、
普段は意識されないけれど存在している境界線の外側に、こぼれおちているものが実はあるのだ。
何が言葉で何がそうでないか、何が雑音で何が音楽的な音なのか、
そこには常に人工的な、いわば政治的な線引きがされている。
そして文学こそが、新たなpartageを出現させることのできる可能性を持っているのだ。

そうやって考えていくと実にいろんなことに当てはめることのできる概念で、
私がすぐに連想したのはクレオールのことだけど、
そうでなくても共同体論なんかにもつながるものだし、
シュルレアリスムとか、もちろん狭義にも政治と結びついているのだけど、
純粋に文学的な意味でも政治性を見出すことができるように思う。

よく考えれば、何かを表象するという行為は、それだけで表象する主体に力を行使させるものだから、
そういう意味でも文学は内在的に政治的なのかもしれないけど。

それにしても、この表現の選択が見事!
こういう表現との出会いがあるから、フランス語が好きなのです。

2009/05/04

quoi de neuf?

初めて通った日仏学院のクラスは、会話の授業で、
毎週授業の始めに“Quoi de neuf?”と言って近況報告をさせられた。
直訳すると「どんな新しいことがあった?」というところ。

その頃高校生だった私はあんまりネタに困った記憶はなく、
ただそれをどうやってフランス語にするかとか、それにどういったコメントをつけるかとかに
頭を悩ませていた気がする。

実は、大学で取っているフランス語会話の授業でも、
やはり毎週授業の始めにこの近況報告をする習慣がある。

そして今はこの“quelque chose de neuf”=何か新しいこと、を見つけるのに頭を悩ませることが多い。
学業のことばかり話しても面白くないから、毎回ちょっとした非日常を探すというわけ。

これってけっこう大事なことじゃないかなーって思う。
ちょっとした変化に敏感になるということ。
結局のところ、どんなに「日常」と言ったってまったく同じということはあり得ないのだし、
そうやって「新しい」ことを発見できる楽しさっていうのはある。
時が先に進むっていうことは、この発見が増えていく可能性を秘めているということで、だから楽しいことなんじゃないかと思うのです。

ただし、さらにもう一段踏み込んだことを言えば、
前に書いたような過去にまつわる記憶も、それが現代に生きられたものであることを考えれば
この再記憶化の過程というのも「発見」の1つと言えるのだと思う。

「故きを温ねる」ことも、それが源泉となるのだから「先に進む」ことと異なるものではないんじゃないかな。

というわけでゴールデンウィークのnouvelle(新しいこと/ニュースの意)は社会人になった友人たちに会って、「相変わらず」ぶりを確かめ合ったことでした☆