2011/10/19

crime de seine

夕方、サン・ミッシェル橋を渡っていたら人ごみに遭遇した。
よく見るとアルジェリアの旗を掲げている。
そう、10月17日は「セーヌの罪」といわれる、フランス警察によってアルジェリア人が虐殺された日なのだ。

1961年10月17日。
つまりアルジェリア戦争の只中である。
当時フランス、とりわけパリでは在仏アルジェリア人の「動員」をめぐって
独立派FLNとフランス当局が激しく対立していた。
独立戦争は当然「本国」でも戦われていたということになろう。

当時警視総監だったパポン氏はFLNの活動を弾圧すべく、
「イスラーム教フランス人」(=アルジェリア人)に限定して夜間外出禁止令を発令、
この差別的措置に抗議して、FLN側がデモ行進を行ったのが10月17日のことでした。

しかしこのデモを当局は激しく弾圧、何十人あるいは何百人ものアルジェリア人が
セーヌ川に投げ込まれるなどして虐殺されたのです。

当局が直接関与した虐殺、つまり国家的犯罪になるわけですが、
記憶の復元はようやく始まったばかりというところ。

このパポン氏というのは、
実はVichy政権時代にジロンド県知事としてユダヤ人の強制収容所移送に関与した罪で
80年代に起訴されてからかなり長い間係争が続いて、メディアでも大きくとりあげられた
「パポン裁判」で有名な人物なのだけど、
97年にようやく裁判がはじまってから、関連してこの事件についても国家機密が公開されることになったらしい。

このあたりの時差が「記憶の政治」における地政学を反映してる気がしてならない。

良し悪しの評価を抜きにして、例えばユダヤ系ロビイングが強いのは確か。

パポンの一件が報道されたのも大統領選前夜のことで、
政権交代を実現した社会党は、この一件でユダヤ人票を獲得したといわれている。
(パポンは前政権で大臣を務めていた)

そもそも80年代に起訴されるまでパポンは政治家だったのだということ、
そしてド・ゴールによって勲章レジオンドヌールまで授けられているということ自体、
「共和国の罪」の根深さを感じさせるのだけどね。

2011年は50周年にあたるので、集会の規模も大きかったみたい。
前日社会党の代表選に勝利したばかりのオランド氏も献花に訪れたとか。
・・・再び政治利用のにおいがしなくもないが、
記憶とは常に演出されることによって現代に留まることができるのだとすれば、
政治性はまぬがれないのかもしれない。

1961年10月17日をめぐってよく引用されるのがカテブ・ヤシンというアルジェリア人作家の詩。

Peuple français, tu as tout vu     フランス人民よ、きみはすべて見た
Oui, tout vu de tes propres yeux.   そう、すべてを、きみの目で見たのだ。
Tu as vu notre sang couler        きみはわれわれの血が流れるのを見た
Tu as vu la police             きみは見た、警察が
Assommer les manifestants      デモ行進する者たちを叩きのめし
Et les jeter dans la Seine.        セーヌ川に投げ込むのを。
La Seine rougissante           赤く染まったセーヌ川は
N’a pas cessé les jours suivants    それから幾日もとめどなく
De vomir à la face             吐きつづけた
Du peuple de la Commune       コミューンの人民の顔に
Ces corps martyrisés           殉教者の身体を
Qui rappelaient aux Parisiens     その身体は パリ市民たちに
Leurs propres révolutions       彼ら自身の革命
Leur propre résistance.        彼ら自身の抵抗を想起させる。         
Peuple français, tu as tout vu,     フランス人民よ、きみはすべて見た、
Oui, tout vu de tes propres yeux,  そう、すべてきみ自身の目で見たのだ、
Et maintenant vas-tu parler ?     さあ、きみは話すのか。
Et maintenant vas-tu te taire ?    さあ、きみは黙るのか。


2011/10/11

transport

相変わらずフランスでは日常的にストが行われている(笑)
で、ストが一番多い、というか目につくのは、やはり交通機関。

パリの公共交通といえば、メトロ、バスのほかにRER(Réseau Express Régional:地域急行鉄道網)といわれる郊外と都心を結ぶ電車がある。

フランスの各都市を結ぶ路線はフランス国鉄SNCF、パリのメトロやバスはパリ交通公団RATPがそれぞれ運営しているのだけど、ストの交通機関への影響を伝えるニュースを見ていて、初めてこのRERの運営がA~Eまである路線によって違うことに気づいた。

気になってちょっと辿ってみたら、
RERは戦後のパリ開発に沿ったかたちで発展していて、
パリ再開発でも有名なラ・デファンス地区(A線)、新しく建設されたCDG空港(B線)と
市内の中央市場跡の再開発地区レ・アルとを結ぶ路線はそれぞれパリの都市計画の一環としてRATPが運営している。

それに対してもともとあった郊外路線がパリ市内に乗り入れたC~E線はSNCFの運営。

パリは近代になってから整備された街だし、
特に公共交通が発達したのは戦後になってからということもあって、
鉄道網を通して開発を進めるという典型的なパターンがはっきり見えるというわけだ。

そしてサルコジ政権の発表した大首都圏構想"グラン・パリ"という開発計画も結局同じ発想という気がする。
現に、はじめてパリに来てから数年の間にも、地下鉄やRERが郊外までどんどん伸びているのがわかる。
つまり、地方をそれとして発展させるのではなく、
大都市と連結させていくクラスターという発想・・・いかにもネオリベラルという感じ。

今、近代化を目の当たりにするというのはなんだか不思議な気分だ。

2011/10/07

a la recherche de la lumiere

パリという街の魅力に触れたついでに、太陽の最後の光を追って、ちょっと郊外まで足をのばしてみる。
といっても、市内からメトロで一本なのだけど、終点近くまで行くと、
そこはサン・ドニ。

パリというのは行政単位としては県にあたるもので、
パリのあるイル・ド・フランス地方は、
パリを囲む3県の近郊と、さらに外側の4県、併せて8つの県から構成されていて、
サン・ドニはその近郊のひとつ、セーヌ・サン・ドニ県のなかでも一番大きな町。

パリ第八大学もここにあります。
・・・でも今日は大学じゃなくて、教会に行ってきました。



聖ドニというのは、例の、斬首されたモンマルトルから自分の首を持って歩き続けたという逸話の聖人で、その彼が息絶えた地に建てられたというのがサン・ドニ大聖堂。

メロヴィング朝のダゴベルト王の庇護を受けて以降、
併設された修道院も、特に中世の間はベネディクト派の有力な修道会として名声をあげたり、
フランス歴代の王が埋葬されていたり、(ルイ14世の心臓まで展示されていました・・・)
政治的にかなりの要所といえるようです。

建築的には、というかこれも政治的といえるのかもしれないけど、
12世紀に院長となったシュジェールが大改築を行って、初代ゴシック様式といわれる
技術をたくさん取り入れたことでも知られています。
なかでもやはり光の殿堂を築いたといわれるだけあって、
バラ窓をはじめとするステンドグラスは圧巻。


ちなみにシュジェールはルイ7世の摂政もつとめていて、パリのノートルダム大聖堂の改築も手がけたらしいので、初期のゴシックを定着させた人物といえるのでしょうか。

教会って政治と宗教の結びつきをまさに具現化したような場なんだなぁと感じる空間でした。

そしてもちろん、歴史も。
シュジェール自身、歴史家という肩書きも持っていることからもわかるように、
「公定フランス史」というのは修道院から出てくるわけだし。

でも、それだけではなくて、たとえば時代ごとの埋葬の仕方の変遷をたどっていくだけでも
その時代のいろんなことがもっと見えてくるのではないかという気がしました。

そうそう、14世紀ごろの墓石にはよく動物(だいたい犬、獅子みたいなのも)が
死者の横臥彫像(gisant)の側に置かれている(あるいは死者が足をのせている)のだけど、
どういう意味があるのか、誰かご存知の方、教えてください。

それにしても、これだけのところだから当然、フランス革命の標的になって、
大分破壊されてしまうのですが、
19世紀には修復されていて、個人的にはルイ16世とマリー・アントワネットの拝跪彫像(priant)まで復興(?)されていたのが印象的でした。

2011/10/01

ville de Paris

街頭の木はすっかり色づいているのだけど、
パリはここのところ連日の陽気で、
みんな夏の最後のひとかけをつかまえようと、競って外に出ています。

というわけで、私も友だちに誘われて美術館に行ってきました。

パリの北のほうにあるロマン派美術館(Musée de la Vie Romantique).
もともとAry Schefferという画家のアトリエで、肖像画家として知られていた彼のもとに
ドラクロワ、ジョルジュ・サンドとショパン、リスト、ツルゲーネフやディケンズなど当時の名だたる芸術家たちが通うちょっとしたサロンになっていたみたい。

この建物、歴史を辿ってみると、まさに19世紀のパリを映し出していてなかなか興味深い。
建物の建設はパリの人口が急増してきた建設ラッシュに乗っていて、
建築スタイルは復古王政期のものだったり、
1848年の2月革命の際には、亡命を余儀なくされた王家のコレクションがこのアトリエに密かに移されたり、
1870-71年のパリ・コミューンのときは、避難所になったり。

それで、このアトリエだった部分は夏の間だけサロン・ド・テになっていて、

  

庭の植物に囲まれながら思い思いに、お喋りをしたり、本を読んだり、
ロマン派時代の優雅なひとときが連想されるようでした。

ところで、モンマルトルの近くにあるこの美術館には、パリを縦断するメトロに乗って行ったのだけど、
パリは大雑把にいうと、南北×東西で4つの地区で性格が大分異なっていて、
メトロに乗って、それぞれの雰囲気を体験するのはけっこう楽しい。
そして何より、こうやっていろんな“世界”の存在を常に目の当たりにすること、
それがパリに住むことだと思う。

等質性に埋没するのが心地いいことは確かだけど、
世界の面白さというのは、居心地が悪いくらいの多様性のなかにあって、
自分もその多様性を構成するひとり―“異邦人”―であり続けることはきっととても大切なことだ。
パリという街は、よく見ると、そんな刺激にあふれている。