2009/10/18

danse de la cigale

アリかキリギリスか、といったら
私は断然アリ派。
ということは随所で言ってきた気がしますが、
というか、いろんな局面でスタンスの違いを考えることがあって、
もちろん少しずつニュアンスのずれはあるのだけど、だいたいこの「アリ」性に落ち着くのです。

それはたとえば
短期集中に対してコツコツ(・だらだら)型ということであり、
optimaiserに対してmaximaiserということ。

optimaiser/maximaiserというのは、
ある商品を買うとき、前者は気に入ったと思ったものに出会ったらその場で買うタイプ、
後者は一応他のお店も見てから決めるタイプ。
要するに前者の見なかったお店には、もっといいものがあるかもしれない、ないかもしれない。
もしあったら前者はちょっと損。なかったら後者が他のお店を周った分の労力を損する。

で、私は当然後者。
買い物なんかの場合は、ときどきoptimaiserになってみようと思い切ってみたりもするのだけど、
そういうときに限って後でよりいい(気がする)ものを見つけたりして後悔するから、
結局次からまたmaximaiserに戻ってしまう。
でもそれは結局optimaiserにはなれていないということなのだ。
だってoptimaiserはきっとその場で満足して、他の商品を後で見つけても、それについて新たに検討して、自分の選択を振り返る、ということはしないはず。

短期集中型であれ、optimaiserであれ、この「キリギリス」タイプに共通するのは、
潔さ、あるいは思い切りのよさ、だと思う。
そしてそれはそのまま人生観に反映される。
反対に「アリ」タイプは、冒険をしない、無難で、保守的な生き方といえる。
もちろんそれは一つの価値観であり、選択であって、一概に評価を下し得るものではないと思うのだけど。

で、アリ派でありmaximaiserである私は、
いろんな可能性を全て検討したうえで判断しないとなんとなく気がすまなくて、
つい先々のことを把握したいと思うのです。
だって、「あのときここまで考えなかったから、今これができない」ってすっごく悔しくない?
今準備しておけば可能性が拡がるのだから、そうしなくちゃもったいない、と思うわけ。

だけど

先のことはわからない。
そんなの今考えても仕方ないよね、と、ふと思うこともある。
特に外国に行くとそう。
(たとえばフランスの事務手続きとか)思うように行かないことのほうが多いから、
流れに身を任せようという気になれる。

そして、そこには違う時間の流れや生活のテンポというものがあることに気づく。
そうやって流れに乗ってみないと見えないこともあるのだ。

それに、
立派な船を作って航海に備えることも大切だけど、
長い間波に乗っていれば、荒波が来るころには、乗り越える技が身についてるかも。

今自分が考える「先」には、今とは違う自分が立っているはずで、
そのときの自分は、今の自分の基準では図れないものを持っているのだから、
それこそ、今の基準で路を敷いて可能性の幅を規定してしまっては、もったいないじゃない。


気の向くままに、足を運び、新しい小路を抜けてみる。
久しぶりにパリの自由な空気に触れて、そんな生き方を思い出したのでした。

東京のリズムが速い、というだけではない。
外国にいると自ずと捨象されているような情報も、すべて入ってきてしまうから、
雑念が多すぎて、惑わされまいと、つい身構えてしまうのだ。

ときどき、肩の力を抜いて風通しをよくすることを忘れないようにしなくては。

2009/08/24

L ou S

8月23日っていうのは特別な日。
7年前のその日、私は初めてフランスに旅立ったのでした。

もちろん前哨戦はあったし、
留学の半分は、渡航前の準備と帰国後の消化にかかってるって習ったのもこのときだったけれど、
2002年8月23日に私が踏み出した一歩は、確実に新たな道を拓く最初の一歩だった。

あれから7年の間、
いろんな出会いと別れを繰り返し経験してきた。
そして、2009年8月23日、また一人成田からパリに向けて旅立ったのでした。
それは7年前の私とは反対に、1年の留学を終えて帰国の途についた友だちL。

Lと初めて出会ったのは、留学先の大学の「留学フェア」で、日本から来た留学生が自分たちの大学の紹介を行っているブースに、Lが話を聞きにきたときだったと思う。
「また聞きたいことがあったら、いつでも言ってね」と大学のメールを順に書き出していると、
私の名前を見て、「君か」というL。
偶然にも、Lは、大学のlanguage exchangeシステムに応募していた私のペアとなる相手だったのです。

そんなわけで、Lは私のフランス語を、私はLの日本語を添削、補助することになり、
最初は時限を決めて勉強していたのだけど、
そのうち普通の友だちになって、立ち話したり、ご飯食べたり、遊びにいったりしながら、
普通の会話で「これってどういうこと?」と素朴な疑問攻撃をしあったり、
「ちょっと読んでくれる?」といって課題を見せ合ったりするようになったのでした。

Lは日本に興味を持っているだけに、どことなく波長が日本的で、
それで仲良くなれたのだと思っていたけれど、実はそうではなかったかもしれない(!)
よくよく思い出してみると、私たちはlanguage exchangeというきっかけを通して、
けっこういろんなことを話していた。
私が課題で書いたエッセイなんかを見てもらうことも多くて、
なぜ留学するのか、というようなテーマの文章を見せたとき、
「そんなこと考えてたんだねー」
と言いながら、半年後に控えた自分の留学の意味を考えたりしていたっけ。
私が興味を持っているテーマの話も、
同じような分野を専攻している子とは、ある程度自明のこととして敢えて議論にならないし、
そうじゃない子は「難しいことやってるね」とか「問題山積してる分野でしょ、がんばって」とどこか他人事で、フランス人学生とあまりちゃんと話したことがなかったのだけど、Lは一生懸命聞いてくれた。
未知の領域に飛び込んでみようとする感覚が似ていたのかもしれない。
Lは穏かではあるけれど、視野を広げようという意志をひたむきに持っている子で、
だから仲良くなれたんじゃないかと今は思う。

そして実はちょっと不器用なところも似てるような気がする(笑)
でもLはとても友だち想いで、その思いやりが私にはちゃんと届いてるのです。

帰国前日、留学先の京都から東京にやってきたLは、私にお土産(?)をくれました。
それは・・・耳かき(笑)
なぜ耳かきか、というのはちゃんと経緯があるのですが、長くなるので割愛するとして・・・
とにかくその思い出の品を「買わずにはいられなかったんだ」という言葉に、なんだかとても感動したのでした。

2009/06/05

L'art de vivre

久しぶりに通訳のアルバイト。
日仏でやっている"L'art de vivre"をテーマにしたブックフェアをやっている関連で
来日したフランス出版国際事務所というところのお手伝いをするというものだったのですが、
いろいろな手違いが重なって、なぜか急遽シンポジウムの通訳をすることに。。。

ほとんど関係者だけとはいえ、公衆の面前で、
しかも仏→日ばかりか、日→仏の両方向の通訳をすることになってしまい、
あー先生ごめんなさいって感じでした(> <;)

それはそうと、内容はなかなか面白かった。
L'art de vivreというのは、生活の中、日常の芸術というような意味で、
料理、観光、モードetc. さまざまな分野に見られるセンス、知恵のようなもの。
これってきっとどこにでもいろいろな形で存在している文化なのだと思うけど、
こういう表現が定着してることを考えても、フランスはやはりすごく意識的といえる。
どんな生き方をしたいか、とか
自分の生活の中にどんな芸術性を見出すことができるか、とか
そういったことにこだわりを持つというのが、ごく自然なこととして浸透している気がするのだ。

それで、いわば生活に彩りを添えるようなことを専門とした企業の人々と
出版社がどのような形でコラボレーションできるか、ということをテーマとしたシンポジウムだった。

・・・というか、実は企業と出版業界のコラボ―たとえば企業がスポンサーになって出版した本に広告を挟む、ロゴを印刷するとか―がテーマになっていただけなのだけど、扱っていた分野がl'art de vivreだったので、この分野を扱うということ自体を前景化して考えてみたわけ。
参加していたのは在日フランス系企業だったのだけど、在日フランス系企業といって思いつく限りの企業が参加していた、という感じで、要するに、日本でいうフランスのイメージはl'art de vivre的な文化だということでしょう。

でも逆にl'art de vivreに敏感なフランスで注目されてるのは、日本の生活習慣の芸術性。
たぶん私たちは普段意識しないけれど日本的な風習というのはたくさんあって、
たとえば「禅=ZEN」の心といったタームが流行っているのも、フランス人がそこに芸術性を見出しているからなのだ。

というわけで、日常の中に芸術性を追究するフランス的な生き方に魅力を感じる日本と、
日本の風習の芸術性に新しい可能性を感じるフランスの文化交流の1つの通路は「生活」にあるのかもしれない。
ただし、生活の中の芸術は、それが日常に溶け込んでこそ魅力を持つわけで、
あまりに豪華で浮いてしまうような、単なる贅沢、であってはいけない。
日本でいうフランスのイメージは、ハイソなものに傾倒しがちな気がするけれど、あくまで「日常」の中にある芸術を「見出す」というところが人生の楽しみ方なんじゃないだろうか。
教養というのも、そういうものなんだと思う。

2009/05/19

partage du sensible

今学期取っている授業の1つに「文学の政治」というのがあります。
これはJacques Rancièreという哲学者の書いた文章のタイトルなのですが、
文学者の政治参加とか、政治的な内容を扱っているとか、そういう意味での政治性ではなくて、
文学そのものが内包している政治的な性質について論じるというもの。
要するに一見政治とは無縁に思えるような作品
(実際に本文で例示されているのは19世紀のものがほとんど)にも、
広い意味で政治的と呼べるような特性を見出そうとするところが示唆的。

そこで提示されているのがpartage du sensibleという概念。
partageというのは、part=部分にする、ということがだから、分割するという意味もあるのだけど、
レストランなんかで、一品を“シェアする”ときにも使う単語で共有する、という意味もある。
たとえば1つのパイを2人で半分ずつにするとき、半分にする、という点では分割だけど、同じパイを分け合うという意味では共有になるという、その両義性をうまく表わした単語なのです。
sensibleというのは、感覚可能なもの、ということだから、
partage du sensibleは、世の中の感覚可能なものとそうでないものの境界線、
あるいはそれに内包されたものを指す概念となる。
私たちが何かを感じることができるのは、それが感覚可能なものとして共有されているからで、
普段は意識されないけれど存在している境界線の外側に、こぼれおちているものが実はあるのだ。
何が言葉で何がそうでないか、何が雑音で何が音楽的な音なのか、
そこには常に人工的な、いわば政治的な線引きがされている。
そして文学こそが、新たなpartageを出現させることのできる可能性を持っているのだ。

そうやって考えていくと実にいろんなことに当てはめることのできる概念で、
私がすぐに連想したのはクレオールのことだけど、
そうでなくても共同体論なんかにもつながるものだし、
シュルレアリスムとか、もちろん狭義にも政治と結びついているのだけど、
純粋に文学的な意味でも政治性を見出すことができるように思う。

よく考えれば、何かを表象するという行為は、それだけで表象する主体に力を行使させるものだから、
そういう意味でも文学は内在的に政治的なのかもしれないけど。

それにしても、この表現の選択が見事!
こういう表現との出会いがあるから、フランス語が好きなのです。

2009/05/04

quoi de neuf?

初めて通った日仏学院のクラスは、会話の授業で、
毎週授業の始めに“Quoi de neuf?”と言って近況報告をさせられた。
直訳すると「どんな新しいことがあった?」というところ。

その頃高校生だった私はあんまりネタに困った記憶はなく、
ただそれをどうやってフランス語にするかとか、それにどういったコメントをつけるかとかに
頭を悩ませていた気がする。

実は、大学で取っているフランス語会話の授業でも、
やはり毎週授業の始めにこの近況報告をする習慣がある。

そして今はこの“quelque chose de neuf”=何か新しいこと、を見つけるのに頭を悩ませることが多い。
学業のことばかり話しても面白くないから、毎回ちょっとした非日常を探すというわけ。

これってけっこう大事なことじゃないかなーって思う。
ちょっとした変化に敏感になるということ。
結局のところ、どんなに「日常」と言ったってまったく同じということはあり得ないのだし、
そうやって「新しい」ことを発見できる楽しさっていうのはある。
時が先に進むっていうことは、この発見が増えていく可能性を秘めているということで、だから楽しいことなんじゃないかと思うのです。

ただし、さらにもう一段踏み込んだことを言えば、
前に書いたような過去にまつわる記憶も、それが現代に生きられたものであることを考えれば
この再記憶化の過程というのも「発見」の1つと言えるのだと思う。

「故きを温ねる」ことも、それが源泉となるのだから「先に進む」ことと異なるものではないんじゃないかな。

というわけでゴールデンウィークのnouvelle(新しいこと/ニュースの意)は社会人になった友人たちに会って、「相変わらず」ぶりを確かめ合ったことでした☆

2009/04/25

memory≠history?

大学院生活にも少しずつ慣れてきました。
でもなんというか、時間の流れがものすごく密。
流れが密って、変な表現だけど、
日々を送るということが、たとえば時間という流れに揺られてどこかへ向かっていくということだとしたら、
今は量も幅もある豊かな流れの中に身をおいているという感じなのです。

私たちはこうして流れの中で絶えず動き続けている。
なんだ、また同じところに戻ってきたじゃないかって思うこともあるけど、
それだって―時間を海に譬えるなら、その海の状態だって―やっぱり絶えず変化しているのだから
2度と同じということはありえないのだ。

・・・などと考えながら前に進むのですが。
それはさておき、大学院初の発表を終えました。

発表といっても訳読なので、プレゼンテーションではないのだけど。
読んでいるのは、かの大作『記憶の場』("Lieux de mémoire" Pierre Nora編).

そこで歴史と記憶の区別が重要となってくるのですが、
非常に乱暴な区分をすると、過去に属するものが歴史、現在に属するものが記憶。
で、編者曰く、記憶の場というのは、一言であらわすと「現在のなかにある過去の相対的構造」、
あるいは「再記憶化の過程」、つまりその両者をつなぐものなわけです。

これはなかなか面白い問題で、
たとえばホブズボームも『帝国の時代』の序章で、
一般化された記録としての過去を歴史、個人の経験としての過去を記憶と呼んで区別し、
両者の間の曖昧な領域の存在を指摘したうえで、
その正確な認識が困難であること、しかし重要であること、を主張している。
この本が書かれた1980年代において、『帝国の時代』はまさにこの曖昧な領域に属していたということだけど、果たして今日、『帝国の時代』はもはやこの領域を脱したと言えるのだろうか。。。

記憶は再記憶化された後も、やがてまた新たな記憶となって継承されていくもので、
言ってみればそのために、意図的に「再記憶化」という行為がなされるようなもの。
だから「記憶の政治学」なるもの(という授業を私がシアンスポで受けていました)も存在するのよね。

そういう意味で確かに「帝国の時代」は再記憶化という行為を免れないわけで、
政治的に、この曖昧な領域に押し留められてるとも言える。
私の勉強している分野を歴史と呼ぶ人がいるけれど、
この時代をこうした曖昧な領域から救い出す、という観点からすれば、それは正しいのかも。

とはいえ、この再記憶化を経ることによって、この問題は常に現代性を持ったものとして現れていて、
要するにそれがポスト・コロニアルということなのだろうけれど、
それはグローバル化のような現代の文脈において捉えなおさなければならない問題でもあって、
決して過去に葬り去ることはできないとも言える。

私のことを知っている人に研究テーマを話すとよく、
「もっと現代のことをやってるのかと思った」といった反応が返ってくるのだけど、
私は現代のことをやっていないつもりはないんだよなぁ。
と、いうことは、私が扱ってるのは、まさにそのギャップなのかもしれない。

2009/04/05

independance

4月4日はセネガルの独立記念日。
今年は49周年。来年はダカールに見に行きたいなぁ。。

今年のテーマは
"les forces de défense et de sécurité au service de la diplomatie"
直訳すると、防衛と安全保障部隊の外交奉仕。

独立記念日には慣例の盛大な軍隊の行進が行われる、というのはフランスも同じなのだけど、
やっぱりこういうハレの舞台に軍隊が堂々と登場するのを見ると、ちょっと身構える。

国際政治の駆け引きを動かすのは「力」であり、
どんなにソフト・パワー、スマート・パワーという概念が説かれるようになったといっても、
いまだに軍事力のような古典的な力の占める位置は大きいのだ、ということを瞬時に思い出させられるからだろうか。

その国に対する自分の
étrangeté=外性を突きつけられるからかもしれない。

生活というレベルにズームを合わせていたのが、
カメラが引くと突然「国」という枠が現前化してしまう。

これは外国のことを勉強しようと思ったら必ず向き合わなくてはいけない問題なのでしょう。
「よそものの視線」それは意外に鋭いもので、
ときにとても有益だけど、同時に危険性も孕んでいるし、だから警戒もされる。
うまく付き合っていくしかないのです。