少し前になるけど、ヒラリー・クリントン長官が東大でタウン・ミーティングをやるというので、
半信半疑で参加させてもらった。
半信は、滅多にないであろう機会だということ。
半疑は、果たして何か聞き出せるのだろうかということ。
聞き出せるのか、というのは
最近内面的な部分ばかり見ていた自分が表出するものにどこまで反応できるのかというのもあるし、
「市民との対話」を希望したというクリントンが戦略を超えてどこまで語りうるものなのか、というのもあった。
結果としては、やはり大体において予想通り、という感じで、
しかも私の中のアメリカのイメージすら反映した答弁だったのだけど、
それでもさすがに彼女のオーラ、パフォーマンス技術はかなり秀でたものがあって、
それに触れられただけでも行ってよかったと思わせるくらいのものがありました。
院試の直後だったこともあり、
答えられない質問はこうやって交わすのかーとか(笑)
正義に対する信念がけっこう圧倒的だったり。
(これはオバマが就任演説のときに言った「世界に対するアメリカの責任」みたいな発言に対するものと同じ種類の違和感を私に抱かせるのだけど)
・・・違和感、というのは、「責任」「正義」という語の背後にある自負心に対して、
要するに、うぬぼれのようなものを感じるということ。
責任を引き受けるということは、その能力を前提としているわけだし、
正義に関しては、信念を持って突き進むことは力、だけど、裏を返せば、
その影響力を省みずに力を振り回すことに抵抗を感じずにいられるのか、疑問。
もうひとつ気になったのは、「女性」という側面。
彼女自身はそこまででもなかったけれど、受け入れ側(某総長)も、学生も、
「女性」という側面を強調しすぎていたような気がして、
そうやって「女性」としてしか見られないことを、本人はどう思っているのだろうと気になったりした。
彼女が大統領夫人として名声をあげた節があるというのもあるし、
gender equalityがまだまだ確立されていない世の中において、
彼女の活躍は貢献であることは確かだろうけれど、
なんというか、女性「なのに」(女性の「くせに」)活躍してすごいね、と上から言っているみたいで、
じゃあ彼女の功績は、それが男性の手によるものだったら同等の価値はないのだろうか。
たとえば私が何か、私にしかできないことを成し遂げたとして、
それは性別も含めてあらゆるアイデンティティを持った私にしかできないことだったかもしれないし、
そのことは私にとってはとても大切なことには違いないのだけど、
私だったらそれを、一人の匿名の人間として評価されたいような気がする。
様々なアイデンティティは無数にあって、
性別でも国籍でも、そのグループ化という行為は本質的に多少の誤差を避けられない。
おそらく共通項はただ1つ、人間であること、だけなのではないか。
学問というのは、その人間に関する探究なのだと思う。
ヒューマニズム宣言。
院試を終えたばかりの3人の会話を思い出した。
物語の主人公が異性でも、そこに自らを重ね合わせることはありますか?
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