2009/02/20

humanisme

少し前になるけど、ヒラリー・クリントン長官が東大でタウン・ミーティングをやるというので、
半信半疑で参加させてもらった。

半信は、滅多にないであろう機会だということ。
半疑は、果たして何か聞き出せるのだろうかということ。

聞き出せるのか、というのは
最近内面的な部分ばかり見ていた自分が表出するものにどこまで反応できるのかというのもあるし、
「市民との対話」を希望したというクリントンが戦略を超えてどこまで語りうるものなのか、というのもあった。

結果としては、やはり大体において予想通り、という感じで、
しかも私の中のアメリカのイメージすら反映した答弁だったのだけど、
それでもさすがに彼女のオーラ、パフォーマンス技術はかなり秀でたものがあって、
それに触れられただけでも行ってよかったと思わせるくらいのものがありました。

院試の直後だったこともあり、
答えられない質問はこうやって交わすのかーとか(笑)

正義に対する信念がけっこう圧倒的だったり。
(これはオバマが就任演説のときに言った「世界に対するアメリカの責任」みたいな発言に対するものと同じ種類の違和感を私に抱かせるのだけど)
・・・違和感、というのは、「責任」「正義」という語の背後にある自負心に対して、
要するに、うぬぼれのようなものを感じるということ。

責任を引き受けるということは、その能力を前提としているわけだし、
正義に関しては、信念を持って突き進むことは力、だけど、裏を返せば、
その影響力を省みずに力を振り回すことに抵抗を感じずにいられるのか、疑問。


もうひとつ気になったのは、「女性」という側面。
彼女自身はそこまででもなかったけれど、受け入れ側(某総長)も、学生も、
「女性」という側面を強調しすぎていたような気がして、
そうやって「女性」としてしか見られないことを、本人はどう思っているのだろうと気になったりした。

彼女が大統領夫人として名声をあげた節があるというのもあるし、
gender equalityがまだまだ確立されていない世の中において、
彼女の活躍は貢献であることは確かだろうけれど、
なんというか、女性「なのに」(女性の「くせに」)活躍してすごいね、と上から言っているみたいで、
じゃあ彼女の功績は、それが男性の手によるものだったら同等の価値はないのだろうか。

たとえば私が何か、私にしかできないことを成し遂げたとして、
それは性別も含めてあらゆるアイデンティティを持った私にしかできないことだったかもしれないし、
そのことは私にとってはとても大切なことには違いないのだけど、
私だったらそれを、一人の匿名の人間として評価されたいような気がする。

様々なアイデンティティは無数にあって、
性別でも国籍でも、そのグループ化という行為は本質的に多少の誤差を避けられない。
おそらく共通項はただ1つ、人間であること、だけなのではないか。
学問というのは、その人間に関する探究なのだと思う。

ヒューマニズム宣言。
院試を終えたばかりの3人の会話を思い出した。

物語の主人公が異性でも、そこに自らを重ね合わせることはありますか?

2009/02/10

bolero

半年くらい前から予約してあったバレエの公演。

私がパリにいる間に行こう行こうと思っていたら訃報が舞い込み、
そのことであっという間にチケットが完売してしまった振付師ベジャールのバレエ。
その追悼公演でシルヴィ・ギエムがボレロを踊る。


しかしこれは貧乏学生が格安チケットで当日訪れるパリの公演じゃあないから、
お子さまなんぞはお呼びでないわけ。

まして私は院試を控え、お留守番を申しつけられる。
はず・・・だったのですが、

急遽父が仕事で行けなくなり、代わりに私が行けることに。
いい子にしてると(してなくても)いいことあるね笑。

お父さま、お仕事がんばってらしてね☆薄情娘

というわけで、久しぶりの舞台♪
暗闇に映える舞台中央の真っ赤な丸い台。
ボレロの最初のpをいくつも重ねたあの静寂の緊張感が伝わってくる。

繰り返される動きと、それに少しずつ加えられていくヴァリエーション。
音楽と照明と踊りのソロと群舞、
4種類が反復と変化が重なって1つの空間がつくりあげられ、進行してゆくさまは実に見事で、
クライマックスまでぐいぐい引き込まれていった。

ボレロを作曲したラヴェルもすごいと思ったけど、
それに振り付けをしてしまったベジャールもやっぱりすごい。
 (怖い顔と子猫のミスマッチ、最高)

いい舞台を観た直後いつも感じるような、魂だけ舞台の上を浮遊している感覚か、
あるいは、むしろ舞台上の鼓動が私の中に入りこんできたような、
妙な一体感を覚えた。

生の舞台は肌で感じるものがあるのがいい。
舞台芸術の魅力はやはり、その身体性なのではないか。
正確には、精神を身体が媒介するという構図が刺激的なんじゃないかな。

2009/02/04

culture

文化と政治の関係っていうのは、
いつからだろう、たぶんその両方に興味を持つようになってからずっと
気になっていたこと。

特にフランスのことを勉強していると、
この国の文化と政治の特別に密な関係を考えずにはいられない。

パリ政治学院でも文化政策の授業があったし。
植民地政策を考えるうえでも、文化的支配への言及は欠かせない。

そんなわけで、米・仏・日の文化システムを巡る国際シンポジウムが開かれると聞いて行ってきました☆
本当は卒論審査を2日後に控え、他にも諸事情があったのだけど、
なんといってもジャック・ラング(André Malrauxと並ぶ手腕の元文化大臣)が講演すると言うので
生で聞いてみたかったというのも大きいですね。

で、ラング氏の熱弁はただただ圧巻でした。
基調講演はもちろんのこと、その後の討論のときも話を振られる度に、
会場からは思わず拍手が起こるほど聴衆を引きつけていました。

ただ、良くも悪くも、フランス的だなぁという感じ。
文化の力を軽視しないことは大切なことだと思うし、その点ではフランスは優れていると思う。
ただ、それを力として政治的に利用することには、やはり抵抗を感じる。

その分、政治家としてではなく研究者としての観点に立っていたもう一人の講演者、
フレデリック・マルテル氏の発言の方が共感できる部分が多かったのかも。
彼の著書『超大国アメリカの文化力』(De la culture en amérique)にも目を通してみたいもの。

しかし、このシンポジウム一環して気になったのは

Une culture peut-elle être nationale? ということ。

訳しづらいけれど、要は文化というのは果たして特定の国と結びつけることができるものなのだろうか、
というようなことです。
文化に国民性がある、とは思えない。
だとしたら、ナショナルな性質を文化に付与してもよいものだろうか。
もっと言えば、そうしないと文化は「力」を持つことはできないのだろうか。

2009/01/24

Black diamonds

たまたまついていたテレビから、
Black Economic Empowerment (: B.E.E.)という単語が聞こえてきて、
思わずその番組を追った。

南アフリカの特集。
南アフリカでは、アパルトヘイトで生まれた格差を是正するために、
BEEと称して、株主や経営者に占める黒人の割合を増やすなどの黒人優遇政策が採られてきた。

いわゆる経済界の実権を握る階層のほとんどが、いまだに白人であることを考えれば、
この政策の持つ意味はわかる。
信じられないようなことだけど、私が小学校に通っていたころ、
この国には支配と被支配の2つの「人種」しか存在しなかったのだから。
・・・もし小学生の私がこの地に足を踏み入れていたら名誉白人という支配人種にカテゴライズされていたのだ。


けれど、この政策はblack diamondと呼ばれる、黒人の富裕層を排出しただけで、
貧困層には無縁のものだった。
そのことによって、黒人の間にも大きな格差が生じ、暴力のもととすらなった。

というような話。

黒人エリート。
彼らは長年の夢をようやく手に入れたサクセス・ストーリーの体現者でもある。

一方、かつての黒人居住地区だったソウェトは今もスラム街だけど、再開発が進み、
2010年のワールドカップに向けてスタジアムも建設中だとか。

マンデラの許しと共生。それがなければ未来には進めない。
サンゴールの忘却も同じ構造で、
忘れる(J'oublie)と詠むことで忘れ難き過去を永遠に詩の中に記憶し、
一方で対話と共生の未来のために、忘却の意思を表明したのだと思う。

しかし、未来に進むことのできる基盤はそう簡単にはできないんじゃないか。
エリートと民衆の乖離も、その基盤の脆弱さを象徴していると思う。

2009/01/17

finito!!

しばらく更新が停止してしまってごめんなさい。
ちょっとした反動でパソコンに向かって文章を量産する気になれなかったもので。。。

というのも、

14日に卒論を提出してきたから♪

製本された50ページの厚みにちょっと達成感。

  
題して、『アフリカの知的エリートの思想形成における植民地主義の影響―サンゴールの場合―』

読んで感想をくださる奇特な方がいらしたらご一報を。(注:フランス語)

フランス語でちょっとした雑誌論文くらいのものを書くということは、
学部4年の私たちには、もちろんそれなりの労力を要すること。
でもやっぱり、それなりの労力を費やせば、それなりの収穫もある。

現時点でこれだけ集中的に文献に目を通したことはなかったし、
50ページ書いたこともなかったから、
語学だけでも少しは力が伸びたはず。

論文の書き方ということに関しても、学んだことは多い。
冬休みに初稿の書き直し作業に入って、
中間発表のために用意した自分の草稿の拙さに愕然。。。
とすると同時に、初めて進歩を実感できた瞬間でもあった。

2年生になって進学先を決めるとき、
今のところに進もうと決心する決め手となったのが
この卒論の存在。

フランス語で1つ論文を書くということに挑戦してみたいと思ったから。

そして唯一全力を出せたと思えることかもしれない。
「卒論だから~」と言っていろんなサポートをくださった皆さんのお蔭です。

本当に一人じゃ書けなかったよ。
merci à tous!!

2009/01/08

sept herbes


せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ

春の七草で七草粥。

それにしても1月はいわゆる「日本的」な習慣がたくさん残っている気がする。やはり1年の初めだからなのか。

お正月らしいことはあまりしなかった我が家でも、
祖父母から送ってもらったつきたてのお餅と、叔父からもらったナマコと、
子どもたちの好きな紅白なますは食べました笑。
以前フランス人の先生に「ナマコって何?」と絵を描かされたのだけど、
絵に描いて説明するモノでは決してない気がする。。。

年末に近所を歩いてみると、見る家ほとんどが松飾りをつけていたり、
授業が再開して学校に行けば、みな口々に「おめでとう」と言う。
やがて成人式には振袖姿の新成人が街にあふれ、皇居では歌会始。

歌会始って今でこそ天皇は燕尾服、皇室の女性たちはカラフルなドレスで、テレビ中継だけど、
お題を決めて持ち寄った歌を披露し合うというのは、よく古文とかに出てきた世界ですよね。
文学的才能がステータスになるというのは風情があっていいなと思ったり。

そういえば先日、学部長が荒川洋治を引いて
「実学偏重の世の中だが、文学こそ実学である。」という話をしてました。
今の世界情勢ではいわゆる実学の脆弱性が露呈したようなものだが、言葉というのはときに
その人の世界観を変えるほど大きな影響力を持つという点で真に力を持つといえるのではないか、
というようなお話。

彼の詩は読んだことないので、コンテクストはわからないし、学問云々という観点では疑問も残るけど、
ことばの力は実によく表現されていて共感する部分もあるなあと。
ことばの力に気づくときが何よりも感動するもの。

2009/01/02

famille

うちは4人家族。
でも去年は私がいなかったから、3人でした。
さらに4月からは姉が実家を出たので、両親2人。
夏に私が戻ってやっとまた3人。
とはいえ、平日は特に家に揃わないこともしばしば。

そんなわけで、珍しく家で過ごすことになったこのお正月は、
一家4人が久しぶりに集って、却ってにぎやかで、
卒論のために家に篭っていた分、ゆっくり充電できたのでした。

インスピレーションのわかないレポートを抱え、
大晦日のお祭りを境に眠りについてしまった街をにらみながら、
ろくにお正月気分も味わえずに過ごした元日が、
もしかしたら去年一番きつかったかもしれないなどと思い出しながら、
今年は質素でもあたたかみのある、いいお正月だったなぁと、
4つ並んだティーカップを見て、しみじみと幸せをかみしめたり。

鶏口より牛後、小さいながらにいつも背伸びをして大きい人たちについていくのが好きな私ですが、
今年は地に足をつけて、足場を固めるのが目標。
見栄を張らずに穴を丁寧に埋めること、それができる進路を考えたつもり。