今日は授業のお話。
歴史というのは、切り口によって全く違った見え方をするもので、
いろいろな角度から捉えてみることで、
絶対的と錯覚してしまいがちな景色を塗り替えてみるのは面白い。
例えば政治の近代化、つまり国家の誕生という視点でフランス近代史を見直してみると、
カトリーヌ・ド・メディチの残虐さで知られるサン・バルテルミーの虐殺は、
「プロテスタントに対するカトリックの横暴」ではなく、
カトリック国であるフランスにおいて、王家に最も近いはずの貴族の間にカルヴァン派が普及したことを懸念した国家が信仰による国内の分裂に終止符を打つために行った政策であり、
アンリ4世の寛容な政策として評価されるナントの誓いは、
宗教に関係なく国家理性において国家の下に領邦を据える絶対主義の始まりである、と言える。
なんだか、大学受験の世界史を思い出しました。
さらに、
歴史というのは史実の中から国家が「忘却」と「記憶」に値するものをカテゴライズした後に語られるものだということ。
それって情報操作だよね・・・
でもそれが「政治」なのだ、と言われると閉口してしまう。
アイデンティティが話題になる度にいまだに引き合いに出されるE・ルナンの『国民とは何か』にははっきりと国家が「忘却の政治」に立脚していると書かれているのです。
忘却ー記憶は国家が機能するために必要な政策なのだ、というわけ。
それはまさに国家の幻想的な側面を象徴している現象だと思うのだけど、
「まだ国家に代わるものはないのだから、今国家が崩壊したら困るのではないか」と言われるとやはり閉口してしまうのです。
まぁ説得するより納得する方がよっぽど簡単なのですが、
帰るまでに私なりの視点で誰かの景色を1色でも違う色に見せられたらという密かな野望を抱きつつ。。。
そのためにも一生懸命勉強します。
6 件のコメント:
確かに、歴史は頗る恣意的で、政治によってどうにでも「情報操作」される。だけど歴史は専ら政治に従属するだけじゃなく、逆の場合もあると思う。つまり一冊の歴史書が政治を、世界を変えることだってあると思う。山内昌之著の「嫉妬の世界史」が安倍政権を変えたように。・・・説得力に欠ける例だ。
何度もすみません。あの、相互リンクは・・・
>nari
歴史が政治を変えるかー。確かに戦略によって隠されている史実を暴けたら、それは大きな力になるかもしれないよね。そういえば、歴史専門の先生が、研究というのは世界を変える要素が含まれていると思うものでなければやるべきではないって言ってたなぁ。
あ、相リンやっとできました。ごめん、前やったときなぜかできなくて。
結局政治と歴史は相互補完的なものだと思う。政治の問題として歴史が語られる一方で、政治を行う我々は歴史の中に生きている。個人的には、その二つが常に上下関係があるというか、主導権争いをしている、みたいなイメージでとらえてる。よく歴史に対する政治の介入が取りざたされるけど、それは歴史と政治に関する一側面でしかないと思う。てかそこばっかり見てると、精神衛生上よくないというか、憂鬱になってくる。
研究を始めた当初は、それが世界に対してどのような力を持つのか、皆目見当がつかない。山内しぇんしぇ曰く、それでも歴史家はひたすら頑張るしかないらしい。あとあんまり世界を変えようと意気込むと、そっちの動機が先行しちゃって、本末転倒になっちゃう恐れもある。el cidを研究したピダルとかその例かも。
>nari
「歴史に対する政治の介入」ばかりみていると精神衛生上よくない、っていうのはわかる気がするなー。政治家も歴史の中の一市民にすぎないのだという側面、そして歴史というのは国家の競争の経歴ではなくて、市民を中心とした社会構造の変化なのだという側面(フランスのアナール学派的な)も大切だと思うし。
確かに世界を変えようという目的が先走ってしまうのは危険な気がするけど、「ん?もしかして、この角度から掘り下げると、世界が違って見えるかも?!」っていう「ん?」っていう発想が歴史家の要なんじゃないかなぁ。
なんか、何度も書いてしつこいね。
「違って見えるかも」っていうのはまさに学問的の発見の瞬間な訳で、この上なく素晴らしいわけだけど、「違って見せよう」ってなると危ないよね、ってことを言いたかったわけで。
また「市民」という語を使っている・・・。俺が物々交換を未だに行ってる村落で酒を飲んでいる間に、そんな高尚な言葉を。
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